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植木朝子 『虫たちの日本中世史/『梁塵秘抄』からの風景』

☆mediopos-2439  2021.7.21

日本人はよく虫好きだといわれ
古くから虫に対して
嫌悪と同時に愛着をもっていることから
虫を詠んだ詩歌なども多く詠まれている

日本列島は南北に細長く
温暖多湿な気候なので植物相が豊富で
それらを食草とする虫たちが
多種多様に生息しているため
昆虫に接する機会も多く
人と虫が身近な場所で共生的な関係にあることが
その背景にあるのだろう

しかも昨今とりあげられることもあるような
昆虫食のような文化の生まれる
熱帯雨林のような環境とは異なっている

本書は平安時代後期に
後白河法皇の編纂した歌謡集である『梁塵秘抄』を中心に
「虫」を詠んだ詠からみえてくる「日本中世史」である

同じく平安時代後期以降に成立した短編物語集
『堤中納言物語』のなかに「虫めづる姫君」の話がある

だれもが蝶や花を愛する中で
主人公の姫君は毛虫や気味の悪い昆虫を愛で
名前をつけ飼育している変わり者だが
そう見られることを気にせず
自分の考えどおりに生きそれを変えようとはしない

平安時代後期といった時代に
それが「虫」をモチーフに
自分の生き方を貫こうとした女性の話が
書かれているというのは興味深い

ジブリのアニメ『風の谷のナウシカ』は
その「虫めづる姫君」をモデルにしているようだ
ナウシカはオウムの子どもを大切にし
毒のある花をこっそりと栽培している

「虫めづる姫君」もナウシカも
社会の常識に反することを恐れず
あくあまでも自分の考え方や生き方を
貫こうとしている存在だといえる
花や動物など感情移入のしやすい存在ではなく
それが「虫」であることが
テーマ表現に適しているのだろう

虫は当時の和歌にも詠まれていたりするが
清少納言の『枕草子』の「虫は」の段にも
蓑虫・額づき虫・蠅・夏虫・蟻の五種を
評しているところがある

そこで評されている虫は「見るもの」だ
それに対して
ここで主な題材となっている
『梁塵秘抄』のなかの「虫」は「共に遊ぶもの」である

『梁塵秘抄』も「虫めづる姫君」と同様
平安末期に編纂されているが
そのなかでは
「遊ぶ」「舞ふ」という言葉が使われているように
「小さな虫たちが生き生きと動き回るさま」が
さまざまに詠われているのである

「見るもの」としての虫と
「共に遊ぶもの」としての虫

「共に遊ぶもの」としての虫は
今様という当時の流行歌のなかで詠われた虫
ということからも想像できるように
芸能とも深く関係してくるところがある
動物の真似をする芸があるように
当時も「蟷螂の舞」のように
虫に「なる」芸能があったのだという

そういえば以前から
カマキリの真似をするお笑い芸人もいたが
最近では俳優の香川照之も
昆虫をテーマとしたテレビ番組に
カマキリの着ぐるみ姿で登場したりもしている

そこでもおそらく虫を観察するだけではなく
虫と「共に遊び」虫に「なる」という発想があるのは
日本では古くから虫に対する独特の感性を
持ち続けているところがあるのだろう
おそらく西洋とは虫に対する関係性が
大きくことなっていることからくるのではないだろうか

香川照之がカマキリの着ぐるみで登場するのは
虫を愛で虫に「なる」文化さえあった日本人が
最近では虫に対してあまりに関心をもたなくなっている
そんな危機感もあるのだろう
いまでは世界中に生息している虫たちの
4割ほどまでが劇的なまでに減少しているという

虫たちは農作物の花粉の媒介者であるとともに
害虫の天敵・食糧源・土壌の栄養をリサイクルする存在で
その激減・絶滅は地球の生態系と人類の生存にとって
破壊的な影響を壊滅的な結果を導き出すことになる

集中的な農業や殺虫剤・気候変動が主な原因だが
そのほんとうの原因は
人間が虫と共生することを怠っていることなのだろう

虫に関心を持ち虫を愛で虫に「なる」
そんな文化を共有できるようになること
それが虫との共生環境を
育てていくことにつながるのではないだろうか

■植木朝子
 『虫たちの日本中世史/『梁塵秘抄』からの風景』
  (叢書・知を究める 19 ミネルヴァ書房 2021/3)

「本書は、私が最も興味を寄せている、平安時代末の流行歌謡・今様を一つの出発点として、中世の人々と虫との関わりを追いかけたものである。私自身を含め、現代人の人々の持つ、虫への矛盾した思いは、過去とどのようにつながっているのか、多くの先達に導かれながらたどってみたい。
 今様は、華やかで現代風な魅力を持つゆえにそう名付けられ、平安時代末の京都で大流行した。今様に夢中になった後白河院は、喉が腫れて湯水も通らなくなるほど歌の稽古を重ねる一方で、その詞章を集めて『梁塵秘抄』を編んだ。『梁塵秘抄』には、『鳥獣戯画』を髣髴させるような、遊ぶ動物たちの姿があちこちに見られるが、特に小さな虫たちが生き生きと動き回るさまからは、今様が映し出す中世という時代の躍動感が確かに伝わってくる。
 『梁塵秘抄』に登場する虫は、蛍・機織虫(キリギリス)・蝶・蟷螂・蝸牛・稲子麿(ショウリョウバッタ)・蟋蟀(コオロギ)・虱・蜻蛉である。これらの虫が歌われた今様は以下の通り。

  常に消えせぬ雪の島 蛍こそ消えせぬ火はともせ 巫鳥(しとと)といへど濡れぬ鳥かな 一声なれど千鳥とか(一六)
  極楽浄土の東門に 機織る虫こそ桁に住め 西方浄土の灯火に 念仏の衣ぞ急ぎ織る(二八六)
  わそかしく舞ふものは 巫子楢葉車の筒とかや 平等院なる水車 囃せば舞ひ出づる蟷螂 蝸牛(三三一)
  茨 小木の下にこそ 鼬が笛吹き猿奏で かい奏で 稲子麿賞で拍子つく さて蟋蟀は鉦鼓の鉦鼓のよき上手(三九二)
  舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん 実に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)
  頭に遊ぶは頭虱 項の窪をぞ極めて食ふ 櫛の歯より天降る 麻笥の蓋にて命終はる(四一〇)
  居よ居よ蜻蛉よ 堅塩参らんさて居たれ 働かで 簾篠の先に馬の尾縒り合はせて かい付けて童冠者ばらに繰らせて遊ばせん(四三八)

 消えない火を灯しているホタル、衣を一生懸命織っているキリギリス、おもしろく舞う蝶や蟷螂やカタツムリ、拍子をとるように飛んでいるショウリョウバッタ、鉦鼓を打つような声で鳴いているコオロギ、人の頭で遊んでいるシラミ、子どもたちと戯れるトンボ……。これらの今様からは、積極的な擬人化をほどこされた愛らしく親しみやすい虫たちの姿が浮かび上がってくる。このような虫の把握はしかし、必ずしも一般的ではない。たとえば伝統的な和歌の中では、多くの場合、鳴く虫が聴覚的に捉えられており、舞う虫、遊ぶ虫といった捉え方はほとんど見られないのである。」

「(『梁塵秘抄』の虫の今様)を概観して気づくのは、ほとんどの場合、「遊ぶ」「舞ふ」という言葉がともに使われているということであり、こうした語は『梁塵秘抄』今様の虫の把握を端的に示すものと思われる。すなわち、「遊ぶ」「舞ふ」の語は虫の動きに注目することによってこそ選び出されるものであって、虫の芸能化を媒(なかだち)するものといえるのではないか。こうした今様の特徴は、伝統的な文芸たる和歌と比較することでより際立つ。和歌においては、蛍や蜘蛛を除いては松虫・鈴虫・蟋蟀・蝉・蜩など鳴く虫を取り上げることが圧倒的に多い。鳴かない虫である蛍は「明けたてば蝉のをりはへ鳴ききくらし夜は蛍の燃えこそわたれ」(『古今和歌集』(…))のように、「燃ゆ」という特性から恋歌に詠まれたり、「音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ」(『後拾遺和歌集』(…))のように、「思ひ」の「ひ」に蛍の「火」を掛けて詠まれるなど、修辞的な要素が色濃い。また、蜘蛛は、「秋の野に置く白露は玉なれや貫きかくる蜘蛛のいとすぢ」(『古今和歌集』(…)のように、その巣や糸に焦点を当てて詠まれることが多く、蜘蛛そのものの詠歌は、「我が背子が来べき夕なりささがにの蜘蛛の振舞かねてしるしも」(『古今和歌集』(…))のように蜘蛛の行動を待人の訪れの前兆と見る俗信に支えられている。鳴かない虫であっても、その虫の動きそのものを捉えて歌うことはまずないといってよい。和歌の鳴く虫と今様の舞う虫は対照的な様相を示していよう。
 平安文学の虫を論じる場合、必ずひきしに出されるのは、『枕草子』の「虫は」の段である。ここにはほとんど和歌に詠まれない虫も取り上げられ、名だけではなく評言の付された虫は蓑虫・額づき虫・蠅・夏虫・蟻の五首で、これらは本来、鳴かない虫である(…)。蓑虫は「あやしき衣をひき着せ」られているもの、額づき虫は「道心おこしてつきありく」もの、蠅は濡れたような感触の足をしいている「憎きもの」、夏虫は火の近くで「草子の上などに飛びありく」もの、蟻は大変軽くて「水の上などをただ歩みに歩みありく」ものと、細やかな観察に基づいた記述になっており、虫の姿やその動きに注目している点や擬人化のユーモアは今様と共通する。しかし今様の評言は、時に手にのせるような至近距離のものであり、さらには虫に働きかける様子まで髣髴とする、『枕草子』の虫は見るものであったが、今様の虫は共に遊ぶものであった。
 虫を見つめ、虫と遊んだ人々は、虫に「なる」芸能はほかの獣や鳥になる芸能と並んで「動物風流」として民俗学の方面から研究されている。なぜ動物に「なる」のかについては、民俗芸能に現れる動物を聖なるものとする見方(…)や人間にとって有害な動物を演じてその害獣追放とそれによる豊穣を祈願する、あるいは逆に人間にとって有益な動物を演じて豊穣を祈願するという見方(…)が提出されてきた。橋本裕之は、こうした人間にとって有害か有益か、振興の対象か憎悪の対象かといった価値判断によらず、動物が抱える統御されない力、野生の力とでもよぶべきものを人間が我が物とするプロセスとして動物風流を捉えるという卓見を示した(…)。
 橋本論も指摘するように、芸能を論じることは、さまざまな芸能を一般化しようとすれば図式化に陥る危険性と、個別の芸能のみを論じればその先に何も生まないという二面の困難を有する。しかしあえて、個別の今様を糸口として論じてきた視点から述べれば、虫の動きを面白がる今様の心性は虫に「なる」芸能にとって案外大きな動機といえるのではないだろうか。たとえば野本論は静岡県山名神社の蟷螂舞について、『新猿楽記』の蟷螂舞などにふれながらも、その芸能の由来を「害虫を捕食する蟷螂、とりわけその鎌や斧は、疫病除けの呪力を持つと信じられた」ことに見ている。その根拠は、「山名神社の舞楽にかかわる古老達に「蟷螂の舞」の根拠を尋ねたところ、「稲につく害虫を除けるものだ」と答えてくれた」というものなのである。古老の言葉は山名神社の蟷螂舞の解釈の一つではあるが、蟷螂の動きを芸能化する当初からそれが意図されていたかどうかは疑問である。野本論ふれる『新猿楽記』の蟷螂舞は、
都(すべ)て猿楽の態、烏滸の詞は、腸を断ち頤を解かずといふことなきなり」と評される猿楽の一つであり、人々の笑いを誘う滑稽なものであった。また『御家伝記』の「蟷螂の真似」は酒宴の娯楽の一つである(…)。こうした蟷螂の模倣芸能は人間にとっての蟷螂の価値や意味を笑いの中に溶解するものではなかったか。山名神社の蟷螂舞もこのような芸能の延長線上にあり、時によってさまざまな解釈を付加されながらも、その根本にあるのは蟷螂の持つ独特の動きへの強い興味関心だったと思われるのである。あまりにも単純明白であえて言及するに足らないとされてきたのかもしれないが、今様に見えるごとき虫の動きに興じる精神こそ虫の芸能の第一の動機といえるのではないだろうか。
 文学的伝統を裏切る新しい素材として、また虫の芸能化を媒(なかだち)するものとして、『梁塵秘抄』の虫は重要な位置を占めるものといえよう。」

※以下、本書の【目次】

序 虫に対する嫌悪と愛着

第一章 中世芸能に舞う虫──蟷螂・蝸牛
1 蟷螂の故事と芸能
2 蟷螂のおかしみとあわれさ
3 舞え舞え蝸牛
4 寂蓮と蝸牛の今様

第二章 中世の信仰と刺す虫──蜂・虱・百足・蚊
1 藤原宗輔の蜂飼と堀河天皇の虫撰び
2 蜂の智恵と聖性
3 虱の遊びと発心
4 俵藤太の百足退治
5 毘沙門天と百足
6 蚊のまつ毛
7 蚊との闘い

第三章 中国文芸と鳴く虫・跳ねる虫──機織虫・蟋蟀・稲子麿
1 機織虫の織る衣
2 四天王寺西門信仰と機織虫
3 機織虫を愛した人々
4 蟋蟀は鉦鼓の名人
5 古き筆、蟋蟀となる
6 闘う蟋蟀
7 稲子麿は拍子つく
8 嫉妬しない稲子麿

第四章 王朝物語から軍記物語へ飛び交う虫──蝶・蛍
1 はかない蝶・豪華な蝶
2 瑞兆としての蝶・凶兆としての蝶
3 神秘の蝶の二面性
4 恋する人の魂と蛍
5 武将の亡魂と蛍
6 腐草、蛍となる

第五章 中世の子ども・武将・芸能者たちと遊ぶ虫─蜻蛉
1 蜻蛉の呼び名
2 鼻毛で蜻蛉を釣る
3 蜻蛉釣りと蜻蛉の玩具
4 目を回す蜻蛉・くしゃみする蜻蛉
5 蜻蛉と武将たち
6 蜻蛉返りする人々
7 芸能と蜻蛉返り

第六章 中世の意匠と巣を編む虫──蜘蛛
1 吉兆の蜘蛛
2 蜘蛛の知恵
3 蜘蛛のもたらした道具
4 蜘蛛と遊ぶ
5 蜘蛛の芸能
6 蜘蛛の怪物
7 蜘蛛の巣の美
8 蜘蛛の巣文様

第七章 中世人が聞いた秋に鳴く虫──松虫・鈴虫・轡虫
1 秋の夕べに鳴く虫尽くし
2 鳴かない虫を聞く

終 豊かなミクロコスモス

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