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個人の意識とチームの役割


1.ちょっと気になる記事に出会えた

サッカーに限らず、必ず一度はこういう経験をする。私は子供にサッカーをさせている時点で、この経験こそが人生における忍耐を養う子育ての場だという位置づけで向き合ってきた。
試合に出られることに驕らずに、出られない仲間の思いも背負ってプレーする、口で言うのは簡単なことだけど、どっちの経験もしないことには気持ちがわからないという現実もあるということ。出たいのに出られないし家族に申し訳ないと子供ながらに感じる気持ちや、活躍の場が与えられないジレンマは他に表現しようのない思いでもあり、そういう立場にならないと絶対にわからないからこその経験なのである。


2.名選手名監督にあらず

まさにここの経験値の差を表す言葉なんじゃないか。出場機会がないのに一緒に戦うなんてモチベーションがあるのかどうか。試合に出続けている選手に出られない人の複雑なジレンマが理解できるはずがないと思っている。
ここで経験値をさらに上げるとするなら、出られない状況から、機会を与えられた場面があった時の結果だけでなく、その過程を記憶(記録)に残すことができたらこれ以上ない経験値となる。正解の道を歩かされるのではなく、「自分が選んだ道を正解にする力」を自分の努力によって勝ち得た経験こそが、社会のどんな場面でも強く生きることのできる糧になると思っている。少ない出場機会で結果を残すことがどれだけ大変なことか、そこに向けてメンタルを合わせることにどれだけ無駄な時間を浪費してきたのか、そんな記憶(記録)が経験値となっていくのである。


3.必要な選手とは

紹介した文章中にある「使いづらい選手」には「計算のしずらい選手」として、ゲームで生かしにくいと思われてしまうという悪循環。せっかくのチャンスに空回りして、どうせ・・という逆の期待に応えてしまうというパターンは意外と多いのが現実。使いづらい選手を使いこなす指導者で、相応の場面で適格に使うことができるのならいいが、そこまでの指導者はなかなかいない。パーツに当てはめて使いたい、そんな指導者の「計算がしずらい」というレッテルはなかなか拭い切れるものでもなく、考え方までも見直す必要があるのかもしれない。
一歩踏み込んで、指導者の立場になって考えることができるかどうか。その指導者に不満(陰口)を言っているうちは状況が変わらない。そんな指導者でも手元にない武器を求める瞬間があるとするなら、その時を目指して準備をしておくことが重要なことになる。


4.途中出場の難しさ

選手の交替でゲームのリズムを変えられる選手、突き詰めていけば「使いづらい選手」にはそういう素質を持った選手が多い。でも独りよがりではなく、仲間からも「何かしてくれそう」な雰囲気を持っている選手であることが大前提ではある。そういう信頼がなければいけないし、指導者との関係も円滑であることが必要。
アルゼンチンでは、小学生でも納得のいかない選手交代にははっきりと不満であることを意思表示する。そして、表現することでそこに向けた思いだけは指導者に伝えることができる。逆に日本では、主張しないことが統制であることのように教えられているので、主張することを我慢してしまうのが美徳として定着している。不満を吐き出す場所もないまま気持ちを持って帰ることになってしまうという現象が起こる。どちらが正しいということではなく、気持ちをアウトプットすることはどんな場面でも重要なことであり、我慢することの美学は存在しないということ。
極論から言うと、「何が足りないのか」を指導者と一緒に向き合うことのできる選手。それが一番必要な選手になることの要素だという気がしている。指導者も「使いづらい選手」との距離が縮まることは歓迎すると思うし、質問をぶつけて当たり障りのない平均点の返答しかしない指導者ならそれまでということ。
そこに媚びる必要もなく距離を置く、という覚悟を持って指導者に本気で質問できる子が持つ気持ちの強さ。これを超えていくと、チームや指導者と円滑に付き合うことの要素だと思える時が来るのかもしれない、



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