記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

主題歌”二度寝”から読み解く「ふてほど」ラスト考察(核心編)

TBS金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」にどっぷりはまっております今日この頃。

前回の記事では、劇中に登場するバスは主題歌との兼ね合いで導入されたのでは!?という憶測について述べました。

そして、この憶測を書いているうちに、新たな憶測が浮かんでしまい、急遽、稿を分けて第2弾を書いています。

この記事では、「ではなぜバスが導入されることになったのか」について深堀りして妄想してみたいと思います。
※ネタバレがあります。


はたしてバスは歌詞との兼ね合いだけで導入されるだろうか

前回記事を書いていて、バスが後からタイムマシンとして導入されたことは自分の中で確信を深めているところなのですが、果たしてその理由が歌詞(バスとバース)との兼ね合いだけだろうか、という疑問が今回の仮説に至る出発点です。

二時点間(昭和(1986年)⇔令和(2024年))の移動であれば、すきゃんだる(SCANDAL)のトイレで移動する方が、バスに乗るよりも設定上好都合だと思ったのですが、ここにバス導入の理由を考えるヒントがあるのでは、と考えました。

つまり、ある段階で脚本的に二時点以上を行き来する必要性が生じた、と考えるとどうでしょうか。そのため、いわゆるマシン(バック・トゥ・ザ・フューチャーでいうデロリアン、ドラえもんでいう机の引き出し)が必要になったのではないか、そしてそのマシンを何にするかを決めるにあたり、歌詞との兼ね合いからバスにした、という制作経緯が憶測できます。

デロリアン(バックトゥザフューチャー)

昭和(1986年)、令和(2024年)ともう1つの時点はどこか?

もう1つのひっかかりとして、市郎と純子は妻(母)を早くに亡くしています。市郎は井上(タイムマシンの開発者)に頻繁に会っており、無茶も言えそうな関係性でありながら、「過去に行って亡き妻を一目みたい(あるいは死から救いたい)」「過去に遡ることはできないのか」といった要望やそぶりを一切みせません(妻と幼い純子が映るビデオを何度も見返すほど彼の心の中に居続けているにもかかわらず、です)。

もちろんシナリオ上、亡き人との邂逅は第5話で純子-ゆずる(古田新太)・渚パターンでやっているので、描写が重なる、という理由から描かれていない、ということも考えられますが、この「過去に行きたがる描写がない」ことが今後の展開を見通す上でのヒントであるように思います。

2人が過去に行こうとしない2つの理由とシナリオ

未来に起こる死を避けようとする展開は、それこそタイムリープものの定番といえますが、市郎と純子が過去に行こうとする描写がない理由として、たとえば、①実はすでに過去に行っている、②実はさらに過去から来ていた、の2つが考えられます(ほかにももちろん、2人が過去にこだわりがない性格だったなど、いろいろな理由は考えられますが、ここでは亡き母を一目みたい、あるいは母の死を回避したいという感情から過去に行きたいと願うであろう2人が、そうした言動をこれまでの劇中で見せていない理由として挙げています)。

①の場合、未来に行けるなら過去にも行けるのでは?行ってみよう、と覗き見るように2人で亡き母に会いに行くという場面展開です。あり得るような気もしますが、個人的には②のシナリオの方があるのでは、と思っています。

つまり、実は市郎ははるか昔の人で、令和の時代にテレビ局でカウンセラーの職に就いているように、昭和の時代にも学校の先生の職に就いていたという可能性です(純子は転校生として)。

ここまでを整理すると、もし、割と進んだ段階で2時点間ではなく、3時点(あるいはそれ以上)間のタイムリープが脚本上必要になったのだとしたら?という推測のもと、もう1時点は1986年より過去なのではないか、そして、過去へ行くのではなく、実はさらに過去から来た設定なのではないか、というところまで妄想を膨らませていきました。
(もちろん、もう1時点が令和より未来という可能性もありますが、ドラマ内で未来社会を描きづらいだろうということ等から、検討から外しています)

市郎が知った真実とショック

ここから、さらに憶測を広げていきます。
もし、市郎が過去から昭和(1986年)に、そして令和(2024年)に来ていたのだとしたら、それはなぜか。考えられる理由は、未来を変えたかったのではないか、ということです。

市郎は1986年で、いくつかの歴史改変を試みているように思えます。1つは、井上との出会い、教室での励まし(タイムマシンの開発を応援)、もう1つは純子のチョメチョメを妨害すること。第1話では、何度も純子がチョメチョメしてしまう!と妨害に奔走します。振り返ると、あまりにも確信めいた行動です(まるで何が起こるのかが分かっているような)。

第5話では、市郎と純子の最後が決まっていることを知り、市郎はショックを受けます。しかし、ここで市郎は自分のさだめを受け入れたようにもみえます。令和で生きる、という選択肢もないわけではないですが、そうした気配はあまりありません。

もし、さらに過去の時代でも最後の時が分かっていて、それを避けるために1986年に来ていたのだとしたら? その上で、生きる時代を変えても、同じく9年後に最後を迎えるという運命に変わりはないことを悟ったのだとしたら? これは、(事故)死を回避(エスケープ)しようともがく親子の物語なのだとしたら?

市郎が純子に知らせたくなかった事実は、「2人が9年後に死んでしまうこと」ではなく、「生きる時代を変えても(9年後に死ぬという)さだめは変えられない」ということだったのではないか、そして死から救おうとしていた妻(母)のさだめも、変えることができないと悟ったことによるショックだったのではないか、とも思えるのです(※すべて妄想です)。

そして、ここまでを踏まえると、2人が運命を変えようと、令和で生きる決心をしそうにないことも、妥当に思えます(※繰り返しますが、ただの妄想です)。

奇妙な符号

ところが、この妄想、奇妙な符号をみせます。まず主題歌「二度寝」の歌詞。

♪ エスケープしてみたい
このバスに乗って未来へ
いや、はるか昔
まぁどっちもとんでもないぜ

てっきり、昭和⇔令和間の未来、昔と思って最初は聴いていましたが、普通に歌詞を眺めると、バスで未来や過去(昔)に行けると歌っているように読めます。

もう1つが最初のエスケープ。一体何から? これまた奇妙に符合します。

次に、いくつかの時代描写。
たとえば、前回記事でも言及した市郎がバスの中でタバコを吸うシーン。1986年にはすでに車内は禁煙ですが、もし市郎がそれより過去の(喫煙が許されていた)時代から来ていたのだとしたら? 今いる時代に合わせ間違えた可能性として、この描写にみる違和感が生きてきます。

さらに、曲のタイトル。
「二度寝」というタイトルに込められた意味がもう一つ腑に落ちていなかったのですが、「2度、夢をみる」という意味だと考えるとこちらも奇妙に符合します。
1度目が1986年を生きるという夢(のような時間移動)、2度目が2024年を生きるという夢(のような時間移動)としてです。

妄想のラストは?

考察勢が脚本家を悩ませる、という描写もあるこのドラマで、ラストについて予想的に触れるのはあまりしたくなかったのですが、これも1つのドラマの見方、楽しみ方、関わり方と思うようになりました。

ということで、最後は2人が元いた時代に帰っていく、というあたりを妄想しています。かぐや姫のように。

そして、どんな時代であれ、いま(生きる時代)を一生懸命生きることが大事だ、というメッセージを残してエンディング。劇中で死は避けないし、9年後まで描かない、というのが筆者の予想です。

最後に

いかがだったでしょうか。
劇中の人物描写と、主題歌「二度寝」の歌詞とタイトルを傍証しながら、妄想を膨らませてみました。

矛盾するようですが、私がこのドラマに感じている面白さは、ラストがなんであれ、顛末・結果よりも過程(途中のやり取りや掛け合いの面白さ)を楽しめるかどうかが大事なんだ、と気づかせてくれることです。正直、伏線の回収が見事だろうが、どんでん返しが凄かろうが、役者の演技がひどかったり、カメラワークがぎこちなかったり、セリフ回しが詰まらなければ興ざめです。



その意味で、ラストは気になるけど、気にしないのが大人の楽しみ方、というメッセージを感じ取りつつ、視聴者としての過程の楽しみ方の1つが、展開予想(妄想)だということでお後がよろしいで。チャンチャン♪

何しか残りの2回が楽しみですねー。早く見たい。
Chao!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?