見出し画像

執筆の悩みから抜け出すための分析

(承前)
展覧会を見た感想を纏めようと思い始めた「note」。
ただ、普通にサラリーマンをやっている自分、相当数の展覧会を見ているわけでもないので・・(中略)・・「なぜnoteに残そうとしたのか?」などと考えるように(中略)もう長続きはしないのかもしれないなと思いつつ・・・。自身のモチベーションアップになれば・・・という気持ちも込めて考えてみたいと思います。
(承前)

前々回は
1.(展覧会を)見に行くことは前から大好きだけど・・・
について書いてみました。

次に、「分析的なことを書くのはおそらく自分には無理だろう」…ということを、とある美術展評のウェブ記事を引用しながら、書いてみました。

・・・と、そこで今回は、
2.感想の持ち方
 プラス 3.自分は作る側でもある
 プラス 4.作家さん、その作品と自分の接点
について考えてみました。

2.感想の持ち方 については、
『結論から言うと「きわめて感覚的な展覧会の感想になりやすい」・・・それが言葉になりにくい ということはありそうです』
と、以前に書きました。これについて少し深堀りします。

その後、いくつか「展覧会」を見には行きました。
そしていつも、見てみて感じたこと等を忘れないように、メモを取っているのですが、今メモを見返してみると、まさにメモが非常に「感覚的」・・・
まざまざと、自分の感想の持ち方について自覚しました。
特に、自分の「身体感覚」的なメモが多かったです。
 ・目が痛い ちらつく
 ・どこを見ていいかわからない
 ・遠くから見ると動いて見える
 ・遠くから見るか、近づいてみるか・・・自然に体が動く
 ・近づくと無限にいろんな部分を見てしまう
これって、なぜそういう反応が起こったか?という原因が、必ずあると思うのですが、おそらく自分的には、こういう身体反応が起こった・・・ということで作品を解釈(満足)出来ており、「なぜそういう反応になったのか?」という部分を、人に説明する必要性を感じていないのだと思います。そして、それがまさに、note(文章)で人に向けて書く際の障壁になっているのだと・・・

これには、
3.自分は作る側でもある
ということが、大いに関係しているのではないかと思っています。作る側から考えると、見る側(作品の鑑賞者)からどんなリアクションが得られるかを考えたとき、最初に眼に入るのがこういった身体的な部分。作品を何度も近くから遠くから見ているな・・・とか、細部をじっくりみているな・・・などと、鑑賞者を鑑賞することで、一応自分の作品をどう見ているかを判断しようとします。そういう意味で、この作品はこういう身体反応が出たなぁというところ、そこがメインの感想になっているところがありそうです。

さらに、
4.作家さん、その作品と自分の接点 について。
『自分は作品から何かを求めようとしてしまい、そのことが、言葉にして書くことへの限界を作っているような気もします。2にも通ずることでもありそうです。』
と以前に書きました。
これも、おそらく「自分は作る側でもある」ことと、「きわめて感覚的な感想」に通じています。「今見た作品と自分との接点」をベースとして常に考えているようで、「作る側として何らかのインスピレーション」を受け取るか否かが、展覧会を見たときにとっても重要なことになっています。それは、自分自身の感覚的な部分を拠り所としており、身体反応となって表れることもあれば、作品に自分との接点を見いだせなく、反応が小さな時もあるでしょう。そういった、作品を見た後の自分との関わり?目線?の違い、さらに作る側としての感想?はたまた、ある意味客観的な感想?・・・といったところで、かなり状況が混在し、言葉にしにくい状況が作られているのだと思います。

『作る側としての感想は、評論的目線とはかなり異なりそうです。なので、言葉にしようとすると、自ずと限界があるのかなということも考えられます。』・・・と、以前書きました。

まさに!という気もしますが、そうであれば、「作る側としての感想」で押し通してみたら良いのでは・・・とも思うようになってきました。他者へのテキストでの説明が非常に難しい面もありそうですが、「なぜそういう(身体的な)反応になったのか?」という部分を、今後、書く際には、少しずつ深堀りしながら、もう少しnoteを続けてみようか、と思えてきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?