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あなおそろしき花かな

どうも。2日間をあけまして、どうも。まだ日記の体裁を保ててますが、いずれは月記になりそうです。年記にはなりたくないなぁ。マイペースでやってゆきます。

もう3月も去ろうとしていますね。早いもので。

やり残したことだらけな気もするし、もう3月に用はないぞ!という気もする。春はだめですね。日々のスピードが加速しているような気がするのに、気候は穏やかですから。花々の色彩に少し足を止めてしまうほどです。

さくらは苦手です。いや、好きですけれど。

厳しい冬を越え、さくらの花のつぼみがふくらみ始めるのを見た時はまだかまだかと待ち望むのに、いざ咲いてしまうとすぐに散ってしまうから苦手です。これを儚さと言うのでしょうね。しかし、苦手苦手と言いつつも花が咲くとどうしても足を向けてしまいます。あそこのさくら並木道まで歩こう。ちょっと足をのばして川沿いまで行こう。立派なさくらの木を見つけると、ここでひと休み。なんていうふうに、どうしてもさくらから何かの力によって引き寄せられてしまいます。きっと好きなのでしょうね。

苦手なのか好きなのか、曖昧な気持ちになってしまうのも春のせいだからなのでしょうか。

さくらは別れと出会いの季節、あるいは終わりとはじまりに咲くものだからどうしても人々の気持ちを吸い取っているように感じます。ほかの花は、花が人に寄り添うイメージなのですが、さくらに関しては人がさくらに寄り添っているように思います。これは個人的な見解ですが。

さくらの花が舞うと別れたあの人を思い出す。さくらを見て過ぎ去った月日に驚く。さくらが咲くころ、知人の門出を祝う。次にこのさくらが咲くまで生きていられるだろうか……等々。

梶井基次郎の「櫻の木の下には……」というあまりにも有名な作品もありますが、文豪だって、さくらに惑わされるのですね。ですから、私が惑わされるのも至極当然のこと。

あぁ、さくらは苦手だと言いつつこんなにもさくらのことを考えている。花が散る前にあと数回はさくらの木の下を歩くだろうし、花が散り始めるとまた切なくなるのだろう。あぁさくら。あなおそろしき花かな。

花が散り、新緑が鮮やかに道を覆うころ、やっと私はほっと安心できるのです。

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