見出し画像

会うたびに「人工内耳はどうですか?」「病院行かないんですか」と訊くことの何がいけないのか

別の病気で年一回病院にかかっているんだけど
その時に必ず「人工内耳はどうですか?家族のために手術しませんか?」って言われたり

数年に一回くらいしか会わない人から
「病院行かないとだめだよ。もしかしたらよくなってるかもしれないじゃん」って説教されたりする。

そのたびに「いやだな~…こわいな~…不愉快だな~」って思ってて。


「人工内耳を毎回勧めること」
「 (聴覚障害が)治るかもしれないじゃんと、病院にいかないのを説教する」

 これらの何がダメなのか考えてみた。

まずは障害者権利条約17条。
「全ての障害者は、他の者との平等を基礎として、その心身がそのままの状態で尊重される権利を有する。」という「不可侵性インテグリティの保護」を求めている。

誤解しないでいただきたいのは、これは障害があっても本人には一切手を加えるなということではないのだ。

人工内耳をすることで自分らしく、心地の良い状態を維持できるという人にとって、人工内耳の手術や補聴をさせないということは「インテグリティの保護」が保障されていないということになる。
また、ほかの障害による痛みや苦しみがある場合、手術や器具を使わないそのままの状態でいることは、その人の権利が守られていない。

大切なのは
障害があるからといって、他人によって「自分らしく生きること」「苦痛がない状態」を侵されることのない権利を有するということ。


んでここで話すのは私自身の話なので、別の障害の人とか中途失聴の人のこととは別と考えてもらいたい。

これの理由は後で話すけど、私にとっては無音が一番居心地がよく、自分らしくそして苦痛がなく居られる状態なので「人工内耳しましょうよ」「治るかもしれないんだから検査に行かなきゃ」と他人から言われることはその権利を侵害されているってことですよね。

ここまで話すと
「障害がある自分が良いだって…w強がっっちゃってハイハイww」
「聞こえるようになりたくないなんてあるわけないだろ、人間として」「『私聞こえないままでこんなに頑張ってるんです』って感動を誘いたいのか?」っていう人が出てきそうだけど。


私が難聴になったのは20年以上前のこと。
当時は40dBと軽度でした。それから少しずつ60dB、90dB、100dB、と長い時間かけて落ちていった、いわゆる進行性難聴。(だと思う)
軽度難聴も経験しているわけです。
人工内耳にせよ聴力を軽くするにせよ、聴者と全く同じにはならずに軽度難聴のレベルになるという、たぶんそんな感じですよね。

だからこそ嫌なんです。
軽度難聴だったときってすごく苦しかったから。

軽度難聴だった時の方が「ひとりじゃ何もできない」と他人に依存しすぎている部分が多くあった。
さらに「きこえているはずなのに」という周囲からそういう風に見られることにより「きこえていなければ」というプレッシャーがのしかかる。

それなのに、実際は出来ないことがたくさんあるということがものすごく苦痛だった。今はそういうことから解放されて、だいぶ穏やかな生活を送ることができている。
小さいころからの習慣って怖くて、多かれ少なかれ影響があるけど。

では家族はどうなのか。
軽度難聴のわたしと接するなかでどんな感じだったか、あくまで見た感じだけど。きこえていると思っていたらきこえてない…といったまだらで安定しない状態に対して不快感、不満があるように見えた。

「なんでこんな大声で言ってるのにわかんないんだ!」
 「聞こえないなんかあるわけないだろ!」
ということを言われる事があった。
耳に入ってきた単語について
「ねえなんの話し?」とわたしが話に入ろうとすると
 「お前には関係ない。お願いだからこちらが話しかけた時にだけ喋ってくれ」と言われたり。

家族ではない周りの人は…
この間講義にお邪魔した大学の学生さん(聴)の話なんだけど、バイト先で難聴のお客さんと接したとき
ほかのバイト仲間が
「あのお客さん、何度も聞き返してきて嫌」
「補聴器してるくせに」
という会話をしていたのが、非常に残念だったと発言してくれた。

学生さんは現役の大学生。私よりも10歳以上年下。
そして今は令和4年。
わたしが軽度だったのは、今から20年も前のこと。
なのに私もよく言われていて先生からも指摘されていた。
「口の形をしっかり見て、聞き返しはしないように」と。


軽度難聴になることにより 「楽になった!」という面と 「なぜ聞こえないんだ」と不快になる面がある。
どちらの割合が多いのかはわからないけど自分の経験を振り返るに、私が人工内耳することって
そんなに「周りの人のため」になるとは思えないんだよなあ。

私に対して「人工内耳をしつこく勧めること」「受診をさせようとすること」で、何がおきているのか。というと
それは【聞こえない人間は要らない】という無意識の差別かな。

「人工内耳をしたらきこえるようになりますよ。」
「もしかしたら良くなるかもしれないじゃん!病院いかなきゃ」

これは 「きこえた方が良い」=「きこえない」ということは無い方がよい というメッセージとしてろう者であるわたしに向かっていく。

―「障害」と「障害者」は切り離して考えましょう。耳が聞こえないという障害はない方が良いんです―

というコメントを最近見たが
私の認識としては 「きこえないこと」こそが「私」なので、
「きこえないこと・聴覚障害」は無い方が良いということは
「私という人間は存在しない方が良い」ということになる。

それを聞いた私の子どもたちは、それを聞いた私の大切な人たちは
どう感じるだろう。

私の存在が消えたら、世の中は良くなるのだろうか。

一体、

誰にとって「良く」なるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?