格差にまつわるエトセトラ②

どうも、のっちゃんです。

突然ですが、私は中高大を私立の学校に通っていました(正確には中高は地元の私立で、大学は地元を離れたのですが)。

しかし私の実家は、お世辞にも裕福とは言えなかったですね。外食という文化は私の家庭に存在しませんでしたし、唯一できる贅沢は私の誕生日に回転寿司へ行くことくらいでした。誕生日やクリスマスに友達とパーティーをすることすら、大学に入って初めて知りました。

そんな私にとって、私立の学校に通う生徒は皆所謂「お坊ちゃん・お嬢ちゃん」なわけで。学生時代には貧富の差を度々突きつけられました。

ということでこの記事では、不肖なれど私が若者代表として、現代における富の格差について言及してみようかと思います。面白話としても、あるある話としてもお楽しみくださいませ。

今回は、高校時代のお話を一つ

私が通う高校は私立の中高一貫で、地元では一番の進学校でした。
中でも私が所属する特進科は、毎年旧帝一工や医学部、早慶に何十名も生徒を輩出していました。

そんな弊校ですが、同時に地元一番の金持ち学校でもあります。有名な国会議員の子息や、地元に圧倒的な地盤を持つ医者の令嬢など、文字通り住む世界が違うレベルの金持ちがゴロゴロいたわけです。
一方私の父は、小さな町の飲食店を経営していました。経営者の子供と言えば聞こえはいいですが、決して裕福な暮らしをしていたわけではありません。

そうなると、たとえ友達であっても「住む世界が違う」と感じることは多々あります。
例えば同じ部活のO君は、部活の道具を常に最新モデルのもので買い揃えていました。練習技や用具だけでなく、飲んでいるプロテインまでもが高級品です。
また同じバンドを組んでいたMちゃんは、父が医者兼元バンドマンでした。そのため小さい頃から音楽や勉強の環境が整っており、自宅は県内の一等地に聳え立つタワーマンションです。

多くの人はそれを見て「羨ましい」と感じるかもしれません。しかし当時の私は、地元の勢力図なんてものに全く興味がありませんでした。大学に進学して初めて、彼ら彼女らの実家について知ったほどです。そのため「羨ましい」という感情を抱くことはありませんでした。

ただとはいえ、自分と周囲が違う世界の人間であることは痛感していました。海外留学に行くにも、私の家では数年間も留学に行く費用を捻出できません。そのため厳しい県内の選抜を勝ち抜いた学生のみが参加できる、給付型の留学プロジェクトに参加しました。留学期間は2ヶ月と短かったですが、自分なりに吸収できるものを持ち帰ったつもりです。
しかし周囲はその莫大な資金力を使って、校内の私費留学プロジェクトを梯子していました。1つ参加するだけで一年分の学費が飛ぶようなプロジェクトを、彼らは小旅行気分で経験するのです。

また、学習環境選びにも経済力の差は如実に現れます。私の実家は都心部から離れた田舎にあり、片親でもあったため、登下校は自転車で行っていました。片道1時間半掛かる道を、悪天候の中でも構わず通っていました。
そのような環境のため、私には「塾に行く」という選択肢が存在しませんでした。金銭的にも物理的にも、塾に行く余裕などはなかったのです。代わりに信号待ちの間に単語帳を開いたり、買い替えなくてはならない程ボロボロになるまで学校の教科書を使い込んだりしていました。
しかし私の周りは当たり前のように予備校に通っていました。潤沢な資金で以て年間数十万する講座や高品質なアドバイスを受容し、当然のように成績を上げていくのです。

勿論、私は彼らを妬んだりしません。彼らには彼らなりの苦労があり、決して努力を怠っているわけでもないということもわかっていたからです。
しかしそれでも、「経済力の差は子供の将来を大きく左右する」という残酷な現実を目の当たりにする経験をした生徒は、私の高校でも数少ないと思います。
それに私自身、地元の平均値から見れば圧倒的に恵まれた環境にいます。中高は特待生制度を利用して学費を免除してもらいましたが、それでも大学も含めて10年間私立に通っていました。それに部活や、受験生時代は参考書などの費用も親に頼り切りでした。
私の地元は大学進学率が4割を切るような県ですが、その多くは貧困や家族の無理解が原因です。小学校時代の友人でも、平気で中卒が存在するほどです。そんな環境で曲がりなりにも大学進学までさせてもらい、10年間私立に在籍させてもらえるだけ恵まれているのです。

それでも子供から見て、周囲との差は大人が思う以上に分かりやすいものです。”親ガチャ”という言葉が市民権を得つつありますが、これは単に成功・失敗という二元論で語れるものではありません。要は自分が属するコミュニティの平均値と、どの程度乖離が生じているかが問題なのです。子供に限らず自分と周囲とのギャップがあればあるほど、人は自分の立ち位置に疑問を呈する生き物なのです。

かつてギリシャの偉大なる哲学者アリストテレスは、人間を「社会的動物(Economic Animal)」であると指摘しました。意味合いとしては「人間は個人で存在するのではなく、社会や組織(とそれに属する他者)との関係性の中で『自分』という存在を規定している」ということです。
これは非常に言い得て妙だと思います。平成・令和を生きる中で、人間同士の関わりは加速度的に密接になっています。かつては自分の目に見える(言い換えれば直接的に関わりを持てる)人間関係が「社会」でしたが、SNSやネットの普及によってこの「社会」の範囲は爆発的に拡大しました。それによって自分を形成するための指標たる「社会」のスコープが広がり、アリストテレスの言う「Economic」の度合いが高まったのです。

今の学生は、物心ついた時からこの広大な「社会」に晒されて生活しています。もし私が彼らなら、高校時代からの友人を「友人」と呼べていたのでしょうか。

その自信は、今のところありません。


格差にまつわるエトセトラ 
Vol. 2 ———エコノミック・アニマル———

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