なぜ悲劇は繰り返されるのか? 第10章:政治における問題意識 ②

その理由として、リーダーシップなど政治的手腕や評価を多角的に見たときに実現できそうな政党を自由民主党と立憲民主党などの第1党しかないと思っていて、来年には参院選が控えていることもあり、これが本当の正念場になると私は思っている。

 そして、来年の参院選では新たに選挙権を持った10代の若者が更に増えることになるため、約1年程度の間に個人もしくは政党単位で何らかの成功実績を作らないと今まで得られていた得票数を得られない可能性や新たに票を獲得することは困難になる可能性も出てくる。そして、今回も起きたような小選挙区での票数の拮抗などを招くことになる。

 仮に現段階では若年層の支持を得られていないと思っていても長期的に見た時にきちんと各年代に寄り添っていかないと議員や政党の個人・党評価が下がっていく可能性も同時に発生するため、油断は出来ない。

 そして、若年層が問題だと感じている事をどれだけ真剣に取り組み、成果を上げるかで次回以降の選挙において若年層からの票がどれくらい取り込めるかが決まってしまう。

“僕は(私は)誰も選びたい人がいないから、他の人が選んだ人にやってもらえればいい“
これは選挙など誰かを選ばなくてはいけない場面で投票しない人が考えやすい言葉の1つだ。これは私生活などでもよく見られるが、“自分が何をしても無力だから“という考えをしている人が多いのが現状だろう。そして、これが政治の世界なら同じ政党であっても考え方が違う人はいるだろう。しかし、きちんと正面から向き合って行かないと“この問題は政党としては真剣に考えていない”・“党内の調和が取れていない”とマイナスイメージが先行し、評価も下げることになりかねない。

 しかしながら、今の日本の政治において、“自分のミスを他人に押しつける”・“先輩議員が後輩議員に責任を押しつけて逃げてしまう”など優越的立場を利用した他責行動は日常茶飯事のように後を絶たない。

 そして、その責任を負わされた人は何とかして誰かに責任転嫁をしたいと思う気持ちも少なくないだろう。

 つまり、国民側も議員側も“他責思考の呪縛”に襲われているということになるのだ。そして、他責思考の呪縛が“なんで自分が責任を負わなくてはいけないのだろう。あいつに責任を負わせればいい”と年功序列型思考で考えることが増えていき、その行動をした人がどんどん負の連鎖のように別の相手に対して行うことでやられた相手が追い詰められていくことになるのだ。

 今起きている問題をきちんと精査して自分の責任なのか、相手の責任なのかを明白にして、そこから何が必要になるのかを考えて、知っている人たちに向けて説明をする習慣を付けていかないと今後の議員生命に傷を付けることにもなりかねない。

現在、小説とコラムを書いています。 コラムに関してもこれから完成している物を順次公開していく予定です。 自分の夢はこれまで書いてきた小説を実写化することです。まだまだ未熟ですが、頑張って書いていきますので、応援よろしくお願いいたします。