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バスタブだけの部屋

当時仙台市内でギャラリーを運営したりしていたNPOリブリッジが発行するフリーペーパー『リブリッジ・ホテル』のために書いたもので、「ホテルに深夜チェックインする客が紹介する本」という設定で依頼され、それからすぐ15分ほどで書かれている。ある種のパロディであり、ただひたすらふざけているだけではあるが(当時ささやかに面識があった「菊地成孔さん風に」といったノリで)、おそらく人生で書いた中でもっとも“速い”文章であることには違いない。初出:『リブリッジ・ホテル』(2005年)


こんばんは。チェックインお願いします。ええ、こちらは初めてです。遅い時間にごめんなさい。今日は仕事です。普段から比べたら早い上がりなんですけどね。はい、ここにサインね。

そうそう、ここのバスルームは広い? ホテルはバスルームでゆっくり過ごすのが一番の目的なんですよ。徹夜仕事でもシャワーを浴びに30分だけホテルに戻ることがあるでしょう。限りなくキャンセルに近い形で使う時って、結局バスルームしか使わない。つまり、それがミニマムなホテルの使い方。もちろん、バスタブは広い方がよいですね。体を伸ばして沈めるくらい。誰かが沈んでいるのを眺めているだけに使ってもかまわないくらい。そうすると最小限の使い方は「誰かをバスタブに沈めて、それを眺める」ということになるか。

これ? トーマス・ブルックの本。表紙が真っ白できれいでしょ。こうやって角度を変えると、光沢の違う白のインクでうっすらとタイトルが入っているのがわかる――『Memories of Bouncing Bet(石鹸草[サボンそう]の記憶)』(トーマス・ブルック著/1985年)。この本は、石鹸にまつわる作家の思い出を書き連ねているもので、小さいころに母親が体を洗ってくれた思い出から、旅先で泊まったホテルのバスルームのアメニティ比較から、そうそう、日本に来た時に風俗店に入った話なんてものまで書いてあるんですよ。でも、この本、本当の話は半分もないんじゃないかな。トーマス・ブルックは名前の通りイギリス系だけど、『サンタ・サングレ』を撮ったアレハンドロ・ホドロフスキーなんかとも仲良しだったらしくて、つまりマジック・リアリズム系。本国では「バーバリーを羽織ったボルヘス」なんて言われることもあったらしい。

まあ、石鹸が先進国における清潔感を担っていたのは、おそらく20世紀半ばまでで、実際にはこんなものでは洗い流せない雑菌や汚れがあることを僕らはもう知っているわけ。シェークスピアはずっと昔から知っていたわけだけども。でも、清潔さの象徴ではあるよね。だって、映画なんかで潔癖性の人はたいていくりかえし石鹸で手を洗っているでしょ。本当にきれい好きだったら、紫外線殺菌とかした方が良いじゃない。きっとブルック氏も、清潔の快楽を求めていたわけではなくて、香りとか滑らかさに対する憧憬。

611号室ね。荷物もこれだけだから一人で行きますよ。では、おやすみなさい。



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