イレネオのために映画を
『ショートピース!仙台短篇映画祭2003』(2003年10月11-13日/せんだいメディアテーク)のために書いた文章である。初出:『ショートピース!仙台短篇映画祭2003 パンフレット』(2003年)
映画のはじまりは短篇であった。
それを単なる発明というより発見されるべきものとしてこの世に送り出したリュミエール兄弟が作った映画のなかでも、最も古いもののひとつに『工場の出口』という作品がある。文字通り工場の出口から次々と人が出てくる様子を撮影したもので、いくつかのヴァリエーションがあるらしい。スクリーンという四角い光の枠のなかで、門から出てくる人々を観ることにどれだけの興奮があったのか今の感性で知ることはできないが、おそらく、表面でしかなかったはずのものから人々や馬が飛び出し、観客に迫りつつ衝突が回避され、ごく短い時間でまた暗闇と消えてしまうことは、映画というものの重要な資質である「驚きを与えること」を体現している。
その点からすれば、現在の多くの映画が2時間前後であることは、観る側の生理的理由、あるいは単に商業的な理由にすぎず、映画にとっては時間の長短はさほど問題ではないのだといえるように思われる。むしろ、物語の必然性とは別のところで「観客を飽きさせないために」定期的に火柱や裸体を見せなければならなくなっている作品も少なくないのだから、映画を観たいと思っている多くの人々と、映画で何かを語りたいと思っている少なからぬ人々にとって、2時間というのはもはや長すぎるのかもしれない。第一、ごく一般的な記憶力では、映画を観た直後ですら、最初から最後まで正確に思い出せることはまずない。
ところで、「映画」と「驚き」といえば忘れられない出来事がある。ある日、出張の帰りに読むため、駅の書店で短篇小説のアンソロジーを買った。600ページ近い文庫本をぱらぱらとめくり、『署名』という話を何気なく読み始めた。ページにして10枚にも満たないこの物語を追い始めたとき、私の頭のなかには正確にその世界が再現されはじめた。まさに「まるで映画を観るように」である。妻に先立たれた初老の男が病院の門を飛び出し、バスまで追いかけてきた警備員の目の前で次々と妻との思い出の品を投げ捨て、最後には裸になってしまう。その男の表情も、身につけていた時計も、警備員が若者であることも私はすでに知っていた。なぜなら、その物語は、昨年の映画祭で見た『妻についての幾つかの事柄』(原題は『Des Morceaux de ma Femme』)という映画そのものであったからである。この映画と列車の待ち時間に手にした文庫本の一篇とがどのような関係にあるか、その場で確かめる術はなかったが、J.L.ボルヘスの『伝奇集』に登場するある男_彼は目にしたものすべてを正確に記憶していたという_のような気持ちになった。
その男の名前はイレネオ・フネス。知性というよりも記憶の屑に埋もれ、想像の翼を持つことができない彼の不幸をささやかに哀れむこの物語は、映像が圧倒的な情報量をもち、他の方法では再現不能であることと、それが記憶のなかで消失し続けることの幸福を裏返しに示している。もちろん、ごく短い映画に映されたことでも、それぞれの場面に現れた人の服装、机の上の品々、会話の空白を言葉で正確に説明するには一日ではすまない。けれども、10分の映画は10分でその世界のすべてと、そこからさらに生まれる未来=想像力を観る人に伝達する。長大な映画史から見ればほんの一瞬にすぎないのかもしれないが、短篇映画は現代に生きるイレネオたちの未来のためにもある。
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