『この子は邪悪』(監督・脚本:片岡翔/2022年)
予告編などを観ているとどうしても白いマスクをかぶった少女が目立つため、一定のシネフィルならば『顔のない眼』(1959年)を、そうでなくとも多くの日本人なら『犬神家の一族』(1967年、2006年)を思い起こすことだろうが、製作側がそれを意図したのかどうかはさておき、それはややミスリードであった。もちそんそれらも参照していることは間違いないだろうが、むしろ近年のものならジョーダン・ピールの『ゲット・アウト』(2017年)やヨルゴス・ランティモスの『ロブスター』(2015年)、あるいは、もう名作と言って良いだろう黒沢清の『CURE』(1997年)、それともトビー・フーパーの『ファンハウス/惨劇の館』(1981年)……ほかにもあるだろう、ホラーを中心にさまざまな映画を思い起こさせ、監督・脚本の片岡翔がよくそれらを観て勉強していることは想像に難くない。
このところ脚本家としての活躍もめざましい氏だけに、下手な映画にあるような登場人物たちが言葉で感情や状況を語るようなことは避けられ、ほとんどすべてのことが視覚的に説明される。登場人物の振る舞いや風景、大事な場面は二度繰り返される編集もふくめ、映画は本来サイレントであるとでも言いたげなように。しかし、それは他方で、それなりに年を重ねそれなりの数の映画を観ている観客からすると「観ていれば分かってしまいすぎる」問題も引き起こしているように思える。それほど現実はわかりやすいだろうか?と。
だがそれも、物語を牽引する登場人物が高校生(ないし一般的にはそれに相当する年齢)であることを思うと腑に落ちる。子どもから大人への過渡期にあるその年頃には、身のまわりの世界への解像度はこれくらいなのだ。精神に異常をきたした人々は動物のように振る舞い、古めかしい洋館に住む家族は時代錯誤な洋服をまとい、病院や役所は気軽に向かうには遠い場所にある。片岡監督は仙台のとある高校で映画を教える教師でもあるから、その年頃の世界認識を肌で感じ取っているのだろう。その意味では中高生こそ観るべき映画と思われた。
ところで、高校生のころの感覚を思い出すにはだいぶ年をとってしまった自分には、視覚的に明快なこの作品の恐怖の演出において優位に立つのは、むしろ声や音楽といった「音」であった。たとえば、車中で話す二人の声がそれぞれ別の場所で話しているような、見える光景から想像される音質とはしばしば異なる整音をされた、場面よってはあえてアフレコで入れているのではないかとも感じられる登場人物たちの声は、絶妙に違和感を与え続けた。また、小さな子どもから大人まで女性が語る主体であることが多い上に、主人公の一人を演じる大西流星に声は(彼の本業がアイドルであることもあってか)驚くほどあどけなく高い声であり、大人びた低い声を発するのを許されているのは狂気の医師・父親の玉木宏だけであることも、その違和感ともいえる薄ら怖さに影響していると思われる。さらには、往年の恐怖映画を彷彿とさせる(ここにもさまざまな映画を思い起こさせる仕事が感じられる)、弦楽器を中心とした不穏な劇伴が随所にちりばめられていることもそうだ。
最後に、ひとつだけ疑問があるとすれば、本作はシネマスコープ・サイズで撮られることが正しかったのだったのだろうかという問いである。過去の恐怖映画を十分に咀嚼しつつ、主人公の年頃特有の世界認識の狭さを活かした作品だからこそ、むしろ、スタンダードかそれに近い、今では息苦しさを感じるくらいの幅のせまい画面比率でこそ生きてくる何かがあったのではないか。監督がそのことを考えなかったとは思えないので、製作側の事情なのかもしれない。
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