シリーズ:生きながら死んでいる存在~私と周りの障害者たち~ 第3話 兄よ…
私の兄、Ⅿが障害者だといわれたのは、小学一年生のときでした。
ある日、担任の女性教諭が、家庭訪問でもないのに自宅にやってきて、開口一番「Ⅿくんには障害がある可能性があります」と言った……ような気がします(何分昔のことなので……)。母は右往左往していた。父は怒っていた。曾祖母と祖母は、なんのことだかわからないながらも教諭にキレ散らかしていました。
確かに兄の発育は遅かったらしい。歩くのもしゃべるのも1年遅く生まれた自分のほうが先だったらしい。あまりに歩かないので歩行器みたいなもので練習させたほうがいいんじゃないかと親戚に言われたことすらあったらしい。しかし頑固な父は一切の意見を無視しました。自分の子供が障害者なわけがない。このガンコさはとどまることを知らず、文章が先走ってしまいますが、なんと結局兄の知的障害を認めないまま父は天国に旅立つことになってしまいます。頑固さもここまでくれば勲章ものではないか。幼稚園ではそれほど問題は起こさなかったのか、幼稚園でなにか言われることはなかったそう。自分が兄を「お兄ちゃん」と呼ばないのも、自分が兄をお兄ちゃん、お兄ちゃんと呼ぶことで兄が自分の名前を「お兄ちゃん」なんだと勘違いしてしまった事件から名前で呼ぶように物心つく前から指導されていたかららしいです。記憶にはないですが。
しかし小学校は違う。授業に明確についていけない兄は、すぐに担任から障害児であるという認定をうけることになりました。父はその判断を不服としていましたが、数週間で兄は特別支援学級(当時は特殊学級、略して”トクシュ”)に属することになりました。
特殊学級に所属した兄はそこで自由に学び、育ちました。確かに兄には知的障害があったらしい。どこかのタイミングで診断をしたら一番かるい知的障害のクラスのB‐2級と認定されました。
普通学級との交流にも問題なく参加できる兄は、癇癪は起こしにくい、おとなしい、言われたことはある程度理解できる、ある種の優等生でした。
私が小学校に上がってからも、たびたび兄のいる特殊学級に通って遊んでいた私は、兄が笑顔で過ごしているのをみてああ、ここが兄の居場所なんだろうなあ、と思ってみたりしました。
時は流れて中学校2年生。進学問題がにわかに熱を帯びてきました。ここまで兄の知的障害を一切認めていなかった父親は当然のように兄を普通高校に進学させようと画策、なんと受け入れてくれる私塾まで用意しました。そこは小学校から中学校までのカリキュラムならある程度なんでも対応できる、元教員がやっている小さな個別指導塾で、兄のようなケースにも対応してくれるということです。中学校の特別支援学級の担任の先生は懸念を伝えましたが、父親は無視して塾に通わせることになりました。しかし中学校1年生までほとんどまともな教育を受けていない兄、中学校2年の春に九九も習得できていない進度で1年間頑張ったところで目覚ましい結果があるはずもなく、もちろん1年間の通塾は兄がその先生と仲良くお話をする会みたいになってしまいました(先生の名誉のためにいうと先生はできる限りプリントを進度に合わせて解かせてできることを増やそうとしましたし、兄をずっと見てくれるということが家族以外の人にとって難しいことだったことは想像に難くない、その先生には感謝しかないです)。
そして中学三年生の冬です。普通高校ならどこでもいい、というならば名前さえ書けばはいれると揶揄される芸能系私立高校(第1話にも出てきた)、公立にどうしても入りたい生徒向けの偏差値30台公立農業高校の2つがありますが、頑固で偏屈な父はこの二つを除去。それより一つ上のクラスの私立高校を目指すことになります。明らかにこの戦略は間違っているのですが、偏屈で頑固な父親をとめるものはこの世にはありませんでした。ここまで母が出てきませんが、年齢差10歳以上ある結婚だったせいか、父のやることなすことには一切口出しせず、我関せずというスタンスでした。そしてこの普通高校受験強行は、もちろん不合格という結果で幕を閉じましたし、兄の心に深い父親への恨みというものを残す結果になりました。
普通高校の受験に当然のように失敗した兄は、父親もあきらめて特別支援学校高等部への進学を申請し無事進学します。木工班・農耕班などに配属された兄はここでも穏やかな学校生活を送ります。そして返す返すも父親のしたことは滅茶苦茶でした。もし仮に間違って普通高校の末席をいただくことになれば、兄はいじめの恰好の対象になっていた可能性があります。私も数回に分けて兄を特別支援学校に進学させるように掛け合いましたが、ウイスキーのお湯割りを飲んで顔が赤くなっている仕事が終わった後のへべれけな父親には永久に言葉は届きませんでした(しかたなく進学することになるとはいえ)。
そういえば事件がひとつありました。我が家は洗濯機の稼働のための水脈を井戸水で賄っているのですが、飲料に向かないだけでなく何らかの成分が多く入っている水なので、真っ白い服がこれで選択すると少しずつ黄ばんでしまうのです。この黄ばみを特別支援学校の教諭たちは洗濯していない、一種のネグレクトだと判断し、母親と父親を学校に呼びつけてどなりちらしました。しかし4人の教諭に四方を囲まれて一方的にガミガミと誹謗中傷を受けても、父は一切対応しませんでした。もちろん騒動の最初に母親に電話があったときに井戸水の特性だと説明はしているのですが、それを嘘だと断定して1人を4人で囲んで相手に反論の機会も与えずに怒り続ける特別支援学校の教諭のレベルのあまりの低さ、下劣さ、品性のなさ、人間としての知性の足りなさに絶望しました。なので私は特別支援学校というものが大嫌いです。兄の学校では心臓病の障害児にマラソンをやらせて心臓発作で間接的に殺してしまった事故もあり、その教諭は左遷されましたが、私の特別支援学校への反発心を強化するのには十分な事件でした。
そして特別支援学校の3年生の半ばから、特別支援学校でも就職活動が活発化します。特別支援学校は伝統的に初等部中等部高等部で、大学部は存在しないのが普通なのでみんな就職を目指すことになります。インターンシップのような職場体験という名目の訓練を繰り返して、順調にはたらくということに慣れていった兄は(途中、体調不良を言い出せず漏らしてしまいその職場から兄の学校の学生は受け入れ禁止になったりもしますが)、卒業前には就職先が決まっていました。知的障害者なのでもちろん障害者枠ですし、正社員ではなく契約社員の、6か月更新でしたが。兄は9時5時のフルタイム労働者になったのです。
知的障害者の就業率が3割~4割であることから、兄は知的障害者エリートといえます。兄は今は最初に就職した職場を契約不更新となり数か月就活し、2社目の職場で今も頑張っています。すでに6年以上2つ目の職場が続いている兄は職場でも中堅で、コロナ前では毎月の自由参加の飲み会のメンバーで、兄にも幹事役が回ってくることがあります。初回は大失敗してしまったようですが、2回目からは幹事を丹念な店探しと確かな下見で成功させているようです。新型コロナが収束することを祈るばかりです。
数年前に父親が突然死してしまい、家族が最大6人だったのが3人にまで減ってしまいましたが、兄の笑顔に救われることは多いです。兄は母が野良猫に餌付けしているのを嫌がりますが、動物をいじめたりはしません。
兄と私の関係は超良好で、高校生までは同じ漫画を読んで育ったし、だから漫画の話題も同じだし、高校までは同じCDで育ったし、だからモンマジとかCKBとかナナムジカとかスキマスイッチとかマジ上がるし、趣味がかなり離れてしまった今でも兄の漫画の話をずっと聞いてたりします。史上最強の弟子ケンイチの作者の新作がマジアガルし、リチャード・ウーがマジ刺さる。ゲームの趣味はあんまり合わなかったけど、一緒に最寄りのゲーセンでダイナマイト刑事2やタイムクライシスは死ぬほどやったし(下手だから死ぬほどのまれた)、今も兄はPS4でなんかFPSやってますよ。銃声が聞こえる。
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