ああなるほどこれが住野よる先生の恋愛ものなのだと、白湯のような絶望と希望に包まれながら、ぼんやりと思った。

2020/10/15 この気持ちもいつか忘れる/住野よる 読了 ※後半ネタバレ有 ※個人の感想


キミスイが恋愛ものではないのだとこの本の宣伝を通して知った時、まじか、と思った。少なくとも私の中ではあれは恋愛もので、そして世間にもそう膾炙されていると思っていた。あれを恋愛ものではないと断言なさったよる先生は一体どんな長編恋愛を作り上げるのか、くてくて(青くて痛くて脆い)の時に『キミスイをぶっ壊す』と仰っていた時と同じ緊張とワクワクがあった。

恋愛をするときの、恋をするときの、一陣の風とそれを喪失することの痛々さがきりきりと胸の内で鳴った。そして終盤の紗苗の言葉が、白湯のように私の体と痛みを溶かしていった、そんな小説だった。


※ここからネタバレですので未読の方は閲覧しないことをお勧めします。

序盤の事から。本編、と記された、香弥とチカの出会いと別れから、綴っていこうと思う。
痛かった。香弥が。特別で無い自分を達観しながらも特別を求めている彼が信じられないほど中学の自分のそれで、込み上げる感情が尽くブーメランで、何回か舌を噛もうかと思った。
キミスイの主人公もそうだけれど、よる先生が書く等身大の痛々しさは本当に生々しい。こんな時期あったな、なんて邂逅で片付けられない感情が匂いとなって眼前に迫ってくるようだった。恥ずかしいな、恥ずかしいな、だけどちょっとわかるよ。小さく押し込めて何でもわかったように言って、達観したように見せて、平然と一人でいた、そんな自分を守ろうとした時が、あったよ。
そんな痛さは香弥がチカと出会ってからも続いていた。一人だけの世界が二人だけの世界になった、そこにある特有の浮き上がり方は一人の時と変わらない痛さがあった。
だけどそれでも、一人が二人になったからか。一人だけ、ではなくなったからか。二人の間の細々とした交流には。心の擦り合わせには。まるで小動物のような、猫の腹に顔を埋めてふーかふーかしたときのような、湿り気のあるこしょばゆい愛おしさがあった。
痛さと愛しさを幼さでやわやわと包まれながら話は進む。そして落とされる。
別れは余りにも唐突で余りにも思春期的で。だけど恋愛という概念が通用しない中、世界が違うという大きな溝を挟んだ中、言葉足らずで幼い二人の間でぱっくりと割れてしまったそれはきっと戻ることはないのだな、と、寂寥感の中で思った。


後半で一体この人はこの先生は何を書くつもりなんだと思いながら、誰も望まないアンコールと題されたそれを読んでそしてぶん殴られた。本当にこういうとこ……よる先生こういうとこある……ここで落とし込むかってとこで人間の本性をばちばちに見せてくるとこある……。
名前の件、度肝を抜かれた。そんなことあるのか……あるのか、とは言っても香弥ならば起こりうるのか。納得しかける自分といやでも、と否定する自分が混在して三回ほど頁を往復した。くてくての時にも思ったけれどこれどうなるんだ、と焦燥に駆られる。きちんと欲しいところに落ちてくれるとわかってはいても。

そして予想通りきちんと落ちてきたよる先生の、香弥の答えに心が息をしなくなった。
忘れるということの残酷さをまざまざと見せつけられた。一生抱えて寄りかかって生きていくはずだったそれが掌から溢れていく喪失感に背中が震えた。なくしたくない、なくしたくない、そんな風に記憶を掻き寄せて動揺する香弥に涙腺が潤んだ。どこまでも痛々しかった。


「この気持ちも、いつか必ず忘れる」
「だから今、その自分の心と大切なものに恥じない自分でいなくちゃいけない」
「だから、もう、いいよ」
「忘れても大丈夫」

ここで駄目だったごめんなさい駄目だった。だばだば来た。香弥と完全に重なった私がいた。
忘れたくなくてどうしようも出来なくて風化するそれを眺めていくことしかできなくて。でもそんな自分を理由もなく肯定して欲しくなどなかったのだ。駄々っ子みたいに甘えていた。でも甘やかされたくなくて、理由の無い肯定なんていらなくて、そこに理由を貰えたことに駄目だと思いながらも安心してしまった自分がいた。

チカと紗苗に共通して言える事はなにかと問われればそれはきっと香弥を肯定したことなのだろうと思う。自分を責める香弥を許したことなのだと思う。
何度も傷つけた自分を。依存した自分を。私曰くの"痛い"自分を、私も、香弥も、そして皆、どこかでずっと許してほしくて受け止めてほしくて助けてほしくて。だからそれをしてくれる相手を。
優しさではない愛で罪を許したチカを。
今を指し示すことで忘却を許した紗苗を。
求めてしまう。縋ってしまう。

香弥を許して認めて救った言葉は、範疇外なことに私も救った。生き辛くても呼吸が僅かに出来るようになった。
「過去は取り返しがつかないから今を精一杯生きる」だなんてそんな月並みなことがここまで説得力と慈愛を伴って襲ってくるだなんて誰が想像するだろう。零れ落ちる過去を抱きながら今を歩むことをここまで優しく教えてくれると誰が想像するだろう。ごめんなさいと私も香弥のように呟いてしまった。
僅かに許された安堵が、香弥と紗苗が歩んだ今が、共に歩んでいるというその事実が、相手を認めて歩むことが恋愛なのだと、最後の一文を読んで静かに思った。甘くもなく優しくもなく、リアリティと痛さに溢れた中で隣を並ぼうと手を差し伸べることが恋なのだと知った。
ああなるほどこれが住野よる先生の恋愛ものなのだと、白湯のような絶望と希望に包まれながら、ぼんやりと思った。

際限なく書ききれないままで筆を止める。きっと私はこの本を読み返すのだと思う。まだ聞けていないCDを不慣れな手付きでダウンロードして、そしてまた違う感想を抱くのだと思う。
私のこの気持ちも、いつか忘れる。
それでも本を開けば彼らが恋愛をしているというその事実は、物語と同じように私を楽にしてくれる。

最後に、この本の略称を「コイスル」にするとTwitterで仰ったよる先生、センスと可愛さでノックアウトする気ですか、と情緒が暴れたことをこっそりと記しておく。

自己解釈、長文乱文、失礼しました。
最後まで読んでくださった方、いらっしゃいましたらありがとうございます。いつか忘れる小さな感情を貴方の胸に誕生させることが出来たのなら、心の底から幸いです。