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休学日記

この休学期間に私はいくつか得たことがあるのですが、そのうちの一つを今日は書きたいと思います。人によっては厨二病だと思うようなことを今からダラダラと述べます。



私は死にたいと思うことがなくなりました。

死にたいという感情、それはもう強烈なものです。きっかけ、原因は様々です。例えば、現実で自分が生きていく自信がないほどの絶望・孤独感、無味乾燥な日々、生と死への塾考のすえ等々。悶えるという言葉がよく似合う苦しみ方をしていました。

そんなことを、高校一年のことからずっとぐるぐるやってたわけです。しかもそれは年々パワーアップしてしまう。全く困ってしまう。

しかし、誰しも死にたいと思うことは生きていればあることですから、大して珍しいことではないとも分かっております。

思えば、私は生きることへの希望を何とか捻出して進んできました。
大学で哲学を学べば、生死や世界が理解できる、あの人と生きていけたら幸せだろう。
今でも全くそういった希望を持っていないわけではありませんが、希望は理想とも考えられ、理想はあくまで理想なのです。それを理解していないと、その希望が崩れ去ったときにまた深い絶望をしてしまう。

では、今の私はどうやって生きているのかというと、簡単に言えば、生活そのものを慈しんでいます。
お金や社会的な地位のような世間の価値観や自己実現をしなくてはならないという義務感を少しずつ削って、ただ毎日ご飯を食べて少し楽しい会話ができていることが幸せに近いものだと思うようになりました。
もちろん、できれば美術館に月に一回は行きたいし、大好きな人たちともっと長い時間を過ごしていたいという欲はあります。欲は悪だと捨て切ろうとしていたこともありますが、相田みつを氏も「にんげんだもの」と言っているじゃないかとその思考は捨てました。

なぜ死にたくなくなったか。
それは「人生はただ生活がある。それだけだ。」と今の私は思うように変わっていっているからです。

一度きりの人生だから!という考え、私が生きている世界でよく言われる使命という言葉もありますが、そもそも私たちは自分の意志で生まれてきたわけではないですし、ロゴスを持つなど、他の動物と違う特徴を私たちが持っていようと結局は滅びる運命にある、宇宙からしたらちっぽけな生物なのですから、私たちだけ特別だと思うのは寧ろ少し傲慢とも思えます。

使命という言葉も拡大解釈している人が多いだけで、ただ一人の人との縁を結べただけでもそれは使命といえると思います。

宗教、哲学、文学、魂、宇宙、美術など、いまだに生死や世界の意味に関心がないわけではありませんし、世の中の矛盾に憤ることもこれからもあるでしょうが、ベースは生活になり、人間という矛盾したものが存在する社会だから当然だと考えるようになっています。

話がどんどん飛躍し、極論になってきましたが、ようは私は以前より肩の力を抜いていきれるようになったよというだけの話です。
ただ、その「だけ」を得るために私は長い間苦しんで、休学までしたので何とも要領が悪いなぁと思うのですが、これらの期間があったおかげで出会えた人やできた経験があると思えば、それほど気になりません。休学したことは後悔していません。

久しぶりの更新となりましたが、自分にとって残しておきたい文章が書けて満足です。



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