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「誰かにとっての万が一」は「俺にとっての二分の一」

今朝、妻から
「子どもに水筒を持たせていないのは、水筒を持っていて転倒した際に
水筒が原因で内臓破壊になっちゃう可能性があるからよ。」
と謎に報告を受けた。
その報告を聞いた私は脊髄反射的に
「いや、そんなことほぼ起こらないでしょ!」
と反論していた。

子どもに水筒持たせる持たせない論争は他所でやってもらうとして…
その際にふと思ったのは
「子どものことに関しては“万が一”に関してはスルーしがちだけど、
これがもし、仕事関連の“万が一”だったらどうだろう。」
という疑問。

冷静に考えれば、
どんな事象だろうと、万が一と思われる事象は万が一の可能性しかない。
(言葉の綾はいくらでもあるだろうが…)
しかし、私の頭はだいぶおかしいので、
こと仕事のことになると
「万が一でも、その一が出てきたらどうしよう??」と考えてしまう。
感覚的には二分の一くらいのイメージ。
これが諸悪の根源だと自分でも思う。

以前通っていたカウンセリングでも
(綾小路)「不安が押し寄せて止まらないです。」
(カウンセラー)「なるほど、ちなみにその不安が的中したことは?」
(綾)「ほぼないです。。」
(カ)「Q.E.D」ニッコリ
(綾)「でも、それでもゼロじゃないじゃないですか!!」
(カ)「!!!」
というやりとりをしたことを鮮明に覚えている。
正しくは「!!!」のカウンセラーの顔だが…

もっともっと冷静になれば
子どものことで、万が一になったら大ごとだが、
仕事のことで、万が一になっても…という気もしなくもない。(よね?)

とか言いながら、
もし子どもが“万が一”平日の日中に救急車で運ばれたとしよう。
同タイミングで仕事の連絡を受けたとする。
私はきっと子どもを最優先できず苦悩してしまうだろう。
(親失格というのはNGコメントです)
それくらい、感覚がバグっているのである。

ということを客観的に見られているのであれば、
まだマシなのかなと思えてきた。

この歪み
①仕事における“万が一”の確率拡大
②仕事と家庭の歪んだ優先度
①に関して、この休職期間中に是正できれば
②も自ずと解決してくるだろう。

ではこの①を是正するにはどうしたら良いだろう。
それを解明していくには
まず、なぜ①と解釈してしまうのか。
そこをすっきりさせる必要がある。

とか言いながら、結論は既に出ている。
ずばり
「仕事でミスして、関係者から怒られるのが怖い」
からである。
怖いから、その万が一に対しても起きることを前提に防御姿勢を取ってしまう。
怒られるのが怖いって、いくつの発想やねん。
と自分でも辟易してしまうが、
悲しいことにこれが根本であると思う。
もっというと、
「怒られると何されるかわからない」」
という恐怖心(トラウマ)に起因していると
自己分析している。

防御姿勢を取ってしまうのであれば、
とことん防御姿勢をとればいいのでは?
と思うかもしれないが、そうは問屋がおろさない。
防御姿勢を取りすぎると、何をするにしても
二の足を踏んでしまって人生楽しめなくなる気がする。

おそらくこの休職期間での自己改革の最低ラインは
この「とことん防御姿勢をとるスタンス」になると思われるが、
あくまでもこれは現状維持の延長線であり、
私が求める最適解ではない。

やはり求めるべきは
「怒られちゃった、でも仕方ないね。」
この精神。

大丈夫、万が一は万が一。
起きた時にその事象に取りくれば良いだけなのだ。
今から不安になっていても
その時が来たらやるしかないのだから、
不安だけ無駄である。
だったら少しでも前向いていこう。
受動的になれなくても、能動的に、意識的に
前向くよう
メンタルを鍛えていこう。


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