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私のおかん

「あんたは行くって言うと思ってた。 でも、今は行かんとってほしい…」

普段見ることのない母の泣く姿に、心臓がぎゅっと掴まれたようだった。



子どもの頃から自由奔放に生きてきた私は、小学〜高校時代は保護者の呼び出しなども多く、いわゆる問題児だった。


「なんで、お姉ちゃんと同じように育ててるのに、あんたはこうなの…」

学生時代の私に対する母の口癖がこれ。

当時は「うっさい。ほっといて。関係ないやろ」というのが私のお決まりの返事だった。

そんな母との関係が大きく変わったのは20歳の頃。

国内外を旅する中で、世代を超えた友人がたくさんでき、私の世界はどんどん広がっていった。

その中で、親との会話も自然と増え、自分の思いを素直に伝えられるようになった。


私が「小言」や「文句」と感じていた母の言動はすべて私を案じてのことだと、
母の口癖が少なくなる中でようやく気付いた。


2011年3月11日。 東日本大震災。

その日、私は九州から遊びに来ていた友人と、通天閣のてっぺんにいた。

気持ちの悪い揺れに、めまいかな?と感じたけれど、すぐに地震発生のアナウンスが流れた。

その時は、大阪が震源地やと思った。


エレベーターの止まった通天閣を階段で降りきったあと、新世界を歩いていると、

「お姉ちゃんたち!東北が大変なことなってるで!」

と、飲食店のおばちゃんが店内にあるテレビを見せてくれた。


そこに写っていたのは、津波が家や車を押し流す映像。
え?なにこれ? 映画? CG?
これが、同じ日本で起きていることだなんて。

それからずっと、テレビやネットのニュースにかじりついていた。

「10メートルを超える津波が街を襲いました」

「海岸に200体を超える遺体が打ち上げられています」

「福島原発がメルトダウンを起こす可能性があります」

次から次へ入ってくる絶望的な情報。

2日後の3月13日。
仲間達と急遽、震災支援のイベントを大阪で行った。

そこで、以前からお世話になっていたNPOの代表が「明日から石巻に行くけど、一緒に行けるやつおるか?」と呼びかけていた。


行きたい。


でも、当時のニュースでは「ボランティアは行っても迷惑だから行かないでください」と何度も言われていて。


私が行っても迷惑になるんじゃないだろうか。

結局、悩みに悩んだ末、私は行かなかった。


それから、毎日、現地入りした仲間のTwitterから目が離せなくなっていた。

「物資は次々に届くけど、それの整理が追いつかない」

「指定避難所以外の場所に避難している人が多すぎて、自衛隊も避難場所や人数を把握できていない」

「避難場所はたくさんあるのに、まだ通れない道も多く物資を届けに行けない」

何をするにも、人手が足りていない。

なんで行かなかったんやろう。

私は、激しく後悔した。


それから1週間が過ぎた3月19日。
21日大阪発の震災復興支援の追加人員の募集。

石巻に行くことに迷いはないけど、両親にどう伝えようか…

その日の夜。

「ちょっと明後日から石巻に行ってくるわ」

母は少し黙った後、

「あんたは行くって言うと思ってた…
 でも、今は行かんとってほしい。
 余震もあるし、放射能のことも心配やし…」

母は目と顔を真っ赤にして、大粒の涙を溢して泣いていた。

普段見ることのない母の泣く姿に、心臓がぎゅっと掴まれたようだった。

専門学校を中退する時も、海外に行く時も、ヒッチハイクで旅する時も反対しなかった母が、行かんとってほしいと言っている。


けれど私は「ごめん、もう決めたから」と、泣き続ける母を残し、自分の部屋へと戻った。



翌朝、起床すると母の姿はなく。

「やっべぇ、おかん出て行っちゃったー」と焦りながらも、石巻行きの準備を進めた。


昼過ぎに鳴った携帯の画面を見ると「おかん」の文字。

慌てて通話ボタンを押すと

「今、姫路のホームセンターにおるんやけど!
 長靴とレインコートと… 他に何がいるの?!」

といつもの母の声。


震災の影響で近所のホームセンターはどこも品薄やったらしく、
片道2時間かけて姫路のホームセンターまで足を伸ばし、必要なものを買い揃えてくれていたのだ。


「あぁ、私のおかんやなあ…」と胸が熱くなった。


翌日、石巻行きの車内で、仲間の分まで作ってくれたおにぎりを食べながら、涙をこらえるのが必死やった。

石巻入りして数日経ったある日、母からメールが届いた。

「最初、石巻に行くのを反対してごめんね。
 体に気を付けて頑張ってください。

 碧のこと、誇りに思うよ」

この母の言葉に何度も支えられた。



ヒッチハイクで日本中を旅していた頃、
よく「お母さんは心配しないの?」と聞かれた。

もちろん、母はとても心配していたと思う。

慣れない携帯で、いつも私の旅のブログを読んでくれていたことを知っている。

そして家に帰る度に「ほんまに良い経験してるなあ」と旅の話を聞いてくれた。

だからこそ母は、どこへ行く時もいつも送り出してくれた。

そのおかげで、私は、良くも悪くもたくさんの経験と出会いに恵まれた。

これらの一生の財産を得られたのは、母の大きな愛のおかげだと、今は分かる。


東日本大震災から10年。石巻での生活ももう10年。

この10年、肉体的にも精神的にもつらいことは何度もあったけれど、
送り出してくれた母のことを思うと、頑張ろう!という気持ちが湧いてくる。

今でも、母の言葉に背中を押されている。

気付けば、私も3歳の娘がいる母になった。

娘も、いつか自分の想いに真っ直ぐ突き進む時が来るかもしれない。

親としては、心配のあまりブレーキをかけそうになる。

でも。

娘がエンジンをかけるのを、見守り応援する母でありたい。

私のおかんがそうしてくれたように。

#エンジンがかかった瞬間
#東日本大震災
#石巻

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