哲学的な思考の備忘録 その五 哲学批判

今まで書いてきたことを少し総括してみると

哲学にしろ一般の学問にしろ、一つの論理によって組み立てられていき(例えば言語によって)展開されるものというのは、
そもそも造られた論理(言語)によって展開されるという事によって、
その論を保証するものであっても、
その論の始まりから終わりまでを保証するものであっても、

そもそもその論の始まり自体が正しいかどうか?というところには踏み込めない、前提がなく、
むしろ言語論理や前提を造ることによってその論の正当性というものを説明するものということでしかなく、

「前提を規定することによって論が理解される、あるいはできる」

ということになります。

これはつまり、哲学や科学といったものはそもそも自らを規定することによって説明するものであって、規定せずには説明できないというものであって、

世界を理解すると一般に考えられている哲学や科学は、
世界を規定することによってしか理解できず、
世界というある一つの前提を造りだすことによってしか説明できず、
世界そのものを理解するというには程遠いものでしかないという事です。

これはある意味マッチポンプ(とは少し違うでしょうがそれしか今単語が出てこない)的なものであって、

言語や論理という前提を使うことによって一般に理解されるすべてのことが、
そもそも一つの論理で自己完結するようにできているのであって、
またそうやって理解するもの、されるものであって、
前提それ自身になってしまっていることによって

言語を理解し学問を勉強してきたことにより
そういったものが覆るという事がほぼ不可能であり
しかしそれによってしか一般に説明できないということが
例えばこうやって文章を書いて説明しようとしていること自体が


「すでに乗せられている状態」である、という事が言えるのです。


とはいえ前回書いたように、単なる道具の一つ、ある一つの使い道のある道具程度に理解していれば、
うまく使いこなせば自身にとって大きな役に立ちますし、実際世の中に大いに役立っていますし、
また使い方を間違えれば自分や他人を傷つけたり貶めたりすることになるでしょう。

この道具は「物事を理解し説明するもの」のように見えますが、
実は自身の前提にそっているだけの、
ある一面的な、あるいは表面上をなぞっているにすぎず、

真に理解する、説明するという事まではできない

という風に考えておくべきでしょう。

もうすでにどこかのだれかが言っている事とは思いますが、この数百年、数千年と考えられている哲学というものは、
ある意味で「そもそも間違っていた」という、批判で終わります。

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