祖父を亡くして


7/17 祖父が亡くなった。
突然のことで、離れた土地に住む自分は通夜にも葬式にも参加できなくて、それを責める人は誰もいなかったけれど、どうにも申し訳なくて、悲しくて、辛いので、ここに感情を整理しようと思う。

祖父との思い出を綴る。
祖父は、子供の扱いが上手な人だった。小さい頃は祖父の膝の上で手遊びや歌でたくさん遊んでもらった。手先が器用な人だったから、コマや竹とんぼを作ってもらって、それで遊ぶこともたくさんあった。竹馬も手作りしちゃう人で、私はついぞ乗れるようにはならなかったけれど、こんなものを作っちゃうおじいちゃんはすごいなと子どもながらに思った。
一緒にお絵描きをしてくれた。カッパの絵を描くのが上手で、私はピクニックの絵を描くのが好きで、チラシの裏に一緒にたくさん描いた。
タバコを吸う人だったけど、私達孫の前ではあんまり吸わなくて、それが愛だなと今は思う。
盆栽や家庭菜園が上手な人で、庭には沢山の鉢が圧巻に並んでいた。夏はスイカを育てていて、半玉もらって食べたこともあった。居間の窓に沿うように朝顔やゴーヤが植えられていた。歳をとるにつれ、それらは少しずつ減っていったけど、春に祖父母宅に行った時には、まだ沢山あった。
おじいちゃんはいつもいつも優しくて、怒られたことは一度もなくて、いつも居間の真ん中の特等席に座ってテレビを見ていた。大きなステレオがあって、たまにそこで音楽をかけてウクレレを弾いてくれた。小さなウクレレをおじいちゃんにもらって、コードも教えてもらったけど、その時の私には難しすぎて結局弾けるようにはならなかった。実家の部屋のクローゼットに仕舞い込んでいることを、思い出したので、次の帰省で一人暮らしの家に持っていって練習しようかな。ハワイアンミュージックが好きだったし、おばあちゃんとハワイに行ってた写真もあったから、ハワイも好きなのかも。今度おばあちゃんに聞いてみよう。
おじいちゃんは学生の時にバスケをしていたらしく、中学生でバスケ部に入った私の話をきいていたく喜んでくれて、当時の話を聞かせてくれた。なんとなくおじいちゃんとの繋がりができた気がして、嬉しかった。
お世辞にも美人とはいえないような私をいつもべっぴんさんだと褒めてくれて、かしこいと褒めてくれて、だいすきな、だいすきなおじいちゃんだった。

私が大学に入ってから、会う頻度が減って、会うたびにおじいちゃんが老いていくのを見るのが、なんとなく辛くて、あまり考えないようにしていた。
成人式の振袖は、おじいちゃんとおばあちゃんが娘に仕立てたものを借りた。伯母振である。振袖の姿をみて、嬉しそうに笑うおじいちゃんの写真が、私のスマートフォンに入っているおじいちゃんの唯一の写真で、振袖を見せられて本当に良かったなと思った。
2023年の夏は就活に忙しくて帰省できず、2024年の1月に約10ヶ月ぶりに会ったとき、おじいちゃんが記憶の姿よりずっと痩せて、歩くのもつらそうで、呼吸もなかなか落ち着かない姿で、かなり衝撃を受けた。「おじいちゃんのお腹はのどぐろとか美味しいものでできてる」と笑っていた、すこしふくよかなくらいの体型だったはずなのに。その数年前からお医者さんに言われて禁煙していたのは知っていたけど、肺が悪くなっていたらしく、呼吸もしんどそうだった。それでもまだご飯は食べられるし、普通に話せるくらいだし、まぁ大丈夫だろう、なんて思っていた。一過性なものかもしれないし、と。
その二ヶ月後の春休みにまた会いに行った時、おじいちゃんはもっともっと痩せていて、もっと呼吸がつらそうだった。おばあちゃんがお寿司を取ろう、といって、父も呼んで、祖父母と両親の5人でお寿司を食べたけど、おじいちゃんはあんまり食べられない様子で、お寿司を数貫食べただけだった。記憶の中ではおじいちゃんはたくさん食べる人だったから、そこでもかなりショックだった。かなりつらそうだったけれど、会話は普通にできるし、まだ大丈夫、まだ大丈夫だと頭の中で唱えて、祖父母の家を後にした。

それが最後のお別れだった。

私が一人暮らしの家に戻る予定の数日前に、おじいちゃんが入院になると母から言われた。つらそうだったし、治療目的ならむしろ安心かも、なんて思っていた。日時の関係でお見舞いに行くことは叶わなかった。一時は退院もしたけど、もうそこから肺が良くなることはないらしく、それからは入退院を繰り返していた。時折お見舞いに行った母からの連絡で、おじいちゃんの体調が芳しくないこと、痩せていること、食欲がないことなどが送られてきてはいたけれど、遠く離れた自分にはあんまり想像できなくて、次の夏休みに帰省したらお見舞いに行かなきゃと思うくらいだった。それまであまり人の死に触れてきたことがないのもあって、死があんまりに遠くにあるから、しょうがなかったのかもしれない。
6/17日に母方の曽祖母が亡くなった。物心がついてから初めての親しい人の死だった。それなりにショックだったけれど、もう100歳を超える大往生だし、覚悟はしていたしで辛さはそんなになかった。通夜や葬式に行くことはかなわなかったからそれだけが心残りだけれど。
それから一週間くらいして、おじいちゃんが緩和ケアの病棟に入院したと母から言われた。私のイメージの中では緩和ケアは癌患者のためのものだったから、驚いて母に確認した。癌ではないけれどもう肺が良くなることはないから、少しでも痛みや苦しみ取り除くための入院だと言われて、その時に少し怖くなった。流石の私でも、もう長くはないかもしれないと思ったし、曽祖母を亡くしたばかりだったから、もう危ないのかも、と少し思った。けれど直接おじいちゃんの姿を見たわけではないから、記憶の中のおじいちゃんは辛そうと言っても会話はできるしご飯は食べれるし、まあそうすぐには、と考えた。考えてた。

そして帰省を2週間後に控えた7/17の朝、母からの電話で目が覚めた。母が朝に電話をかけてくることなんてほとんどないから、電話に気づいた瞬間にもしかしたら、と察した。それは現実であって欲しくなかったけど、やっぱり現実だった。

おじいちゃんが亡くなりました、と聞いて、なんて言えばいいのかわからなかった。自分ごとのはずなのに、他人事みたいな言葉しか思い浮かばなかった。ご愁傷様です、この度は、そんなことばかり浮かんできて、祖父を亡くした当事者のはずなのに、なにもいえなくて、私は「そっか」としか答えられなかった。
その日は寝たのが遅くて、3時間くらいしか寝られてなかったけど、それから一睡もできなかった。おじいちゃんが死んだらしい、でも実感が湧かない。少しだけ泣いたけど、衝撃が大きくて、あまり何も考えられなかった。
亡くなったのが早朝だったから、当日の夜にお通夜、その次の日にお葬式です。とメッセージが来た。遠く離れた土地に住む私はお通夜に間に合うように帰省するのは難しく、兄も帰れないとのことで、通夜と葬式への参列を見送ることになった。おじいちゃんの孫は私と兄の2人だけだから、断腸の思いでの参列見送りで呆然としていると、兄からの着信があった。2人で弔電を送らないか、とのことだった。何もできない無力感に苛まれていたから、兄の提案がとてもありがたかった。私が弔電の内容を考えて、兄が注文してくれた。2人の思い出の中で、おじいゃんがたくさん遊んでくれた思い出が一際強かったから、弔電にはそれを書いた。考えながら、涙が止まらなかった。それは無事に葬式までに届いたらしく、安堵した。おじいちゃんにとどいているといいなと思う。

お通夜もお葬式も終わった夜、母に電話をかけた。すごく忙しかっただろうから、ねぎらいの意も込めて。母と話しながら、おじいちゃんとの記憶がどんどん溢れてきて、涙が止まらなくなった。電話口でたくさん泣いた。
お見舞いに行くたびにおじいちゃんは痩せて元気がなくなって、もう骨と皮くらいになっていたし、ご飯も食べられなくなっていたし、話すこともままならないくらいだったらしい。私が想像しているよりずっと状態が悪かったとその時初めて気がついた。私の記憶の中の姿と全然違う、と母に言うと、私が最後に会ってからの数ヶ月でがくんと悪くなったから、そうだよねと言われた。想像もできないから、私の記憶の中の元気なおじいちゃんで留めておこうと言ったら、「◯◯ちゃん(伯母)も、『孫に弱った姿見せたくなかったんだと思うよ』っていってたよ」と言われ、涙が止まらなかった。孫思いのおじいちゃんだから、ほんとにそうなのかもしれないと思うと、余計泣けてきてダメだった。おばあちゃんも体が弱いし、おばあちゃんの負担になる前に逝ったんだろうね、優しい人だね、とも言われた。記憶の中の強くて優しいおじいちゃんのままで居てくれて、ありがたくて、でも最後にちゃんとお別れできなかったのがつらい。これを書きながら、涙が止まらない。あと2週間頑張ってくれたら会えたけど、でも最後はおそらく苦しくなかったようなので、それだけが救いだ。

近くに住んでいたら、何回か会いに行けたかもしれないと今でも心残りに思う。時間が経つにつれ、おばあちゃんは大丈夫かなとも思う。この二日間は忙しかったようだから、今日あたりからだんだん実感が湧くだろう。
おじいちゃんに会いたい。離れていると、記憶が薄くなるから、喪失の痛みは少し薄まっているのかもしれないけれど、それでもとても苦しい。おじいちゃんに会いたい。もう一度会いたい。

私は大学で、ものづくりを学んでいる。
父も母も芸術畑からは遠い人で、私が珍しい存在のような気がしていた。
けれど、こうして思い返してみると、私のものづくりのルーツは、おじいちゃんにあるのかもしれないと思った。誰かのためにものを作って、喜ぶ姿を見て、自分の喜びにしたいから、ものをつくる。
おじいちゃんの血が、自分に流れていると、確かに感じられる。
なんだか余計に涙が止まらない。
やっぱりわたしはおじいちゃんの孫で、あなたはわたしのおじいちゃんなんだ。


おじいちゃんとの思い出や感じたことは、都度追加していきたい。取り急ぎ。7/19
おじいちゃんの孫より。



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