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恋愛ショートショート集

スマホが鳴る。今から会える?とメッセージが入った。「もう行くね」「……あいつのとこ?」それには答えず、お金を置いて店を出る。なんで彼ではなく、あの人じゃないとだめなんだろう。駅まで走りながら、結っていた髪を解く。あの人の好きな香りを纏いながら、私は微笑んでいた。

彼が嫌いだ。整った顔も甘い言葉も全てが気に入らない。でも、なぜか彼は私の家にいる。「可愛いよね」「嫌い」「俺のこと好きでしょ」顔を歪めてみせるのに、彼は笑っている。「泊まっていい?」視線が絡まる。なぜか顔に熱が集まった。「……だめ」また可愛いねと笑う。彼が、嫌いだ。 

家に帰ると女の声が聞こえた。踵を返してエレベーターへと向かう。ごめんと頭を垂れる彼の姿が浮かんだけれど、無視をした。あと何回自分は彼を許せるのだろう。いつまでこの生活が続くのだろう。無視、無視、無視。マンションを出て友人の家へと向かう。私の本当の気持ちは?……無視。

「好きです」耳まで真っ赤にした彼が、両手で持ったジョッキをぐいと飲み干して言う。「好きなんです、先輩のことが」あまりに真っ直ぐな視線に、思わず目を逸らす。喉の奥で声が止まった。いけないのに、どうして。喧騒が遠くなっていく。全てを失った私は、甘い熱に侵されていった。

別れよう、と言われたのは私が二杯目のハイボールを飲み終えた時だった。頭を下げたまま動かない彼がぽつりぽつりと告げる。彼女ができたこと。妊娠していること。ふざけるな、と思うのに手が震えるだけで何もできない。気がつくと、家に居た。バスタブに凭れかかる。声を上げて、泣いた。

幸せにするから、と彼は言った。私の幸せは、あの日とっくに終わっていた。零れ落ちた涙が何なのかよく分からなかった。

この関係に名前はない。彼は何にでも名前をつけたがるのに、私たちのこの関係については。キスはしない。手も繋がない。あるのは時折訪れる心地良い沈黙。ジョッキから垂れる無数の滴。焦げ目の付いた焼き鳥の串。好きではない。嫌いでもない。ただそれだけなのに、なんでこんなに苦しいの。

彼があの子を見ているのと同じ視線で、私は彼を見ていて。お弁当は星屑の塊。屋上から見える空は、涙の味がする。

溶けたアイスが口の端を伝って、Tシャツの上に落ちた。けらけらと笑う君にも、その拍子に同じことが起こって。二人で顔を見合わせた夏の夜。

「彼女ができたんよ」時空がぐにゃりと曲がった気がした。はにかむように笑った奴が小人のように段々と小さくなっていく。「おめでとうやん」声の震えに気づかれたかしら。人形みたいになった私は、伝票を持って立ち上がった。

「ごめん」と呟いた彼のことをあと何回信じられるだろうと思った。「いいよ」と返した私はあと何回この居酒屋に来るんだろうと思う。

「ねえ先生」「ん?」「好き」採点していた手が止まる。冗談でないことはよく分かっていた。「だ「だめって言うんでしょう」デスクライトに照らされた指がきらきらと光る。「私が先生の彼女になってあげるよ」一筋の風のような言葉だった。慌ててノートを見直す。逆さまだよと彼女が笑った。

鼻を掠めるのは湿った風の匂い。予報より早く雨が降るかもしれないと憂鬱になった。ノートに落書きをしてはしゃぐ君の頭を叩いて立ち上がる。外に出ると、雨はもう降り出していた。耳朶が熱い。いつもは煩い君もなぜか今は黙っている。僕らは一つの傘の中に収まり、帰り道を歩いていた。



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