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【1〜4巻】『進撃の巨人』で描かれた多種多様な「自由」を紐解く①

よろしければ前回からどうぞ

前回において「不条理に抗い続ける姿勢=なりたい自分を自ら選ぶ=自由=人間讃歌」と定義しました。それに当てはめながら第1巻の物語を追っていきます。

物語の舞台は強者が弱者を支配する圧倒的に不条理な世界。壁の中に囚われた人類は自由ではありませんでした。

彼らは壁の外に出られないから不自由なのでしょうか? それだけではありません。ここで重要なのが、彼らは心までも不自由であったというところです。

壁の中の人類は巨人という不条理に抗う姿勢を放棄し、それを受け入れている人々が大多数というのが常識になっていました。彼らは自分たちに科せられた理不尽な運命を変えようとすることもせず、さらには巨人の恐怖をも忘れていたのです。「人間讃歌」とは程遠い状況です。そんな不自由な人々を主人公エレンは「まるで家畜じゃないか」と評します。

エレンは不条理な世界に対し怒りを抱いていました。自分をこの狭い壁の中に閉じ込めている巨人や、それに抗おうともしない人々に対して。このあたりの話はまた別の機会にします。

そしてそのときがやってきます。超大型巨人によって壁が破られ、エレンの故郷シガンシナ区は巨人によって蹂躙され、さらにエレンは目の前で母親を巨人に喰われてしまいます。

このときからエレンの漠然としていた怒りは巨人や世界への憎しみに変わり、「全ての巨人を駆逐すること=奪われた自由を取り戻すこと」という認識になりました。巨人を全て殺せば、自分たちは自由になれるのだと信じて。

それから5年が経ち、エレンたち第104期訓練兵は卒業の日を迎えます。エレンは確信していました。今なら勝てる、人類の反撃はこれからだと。

ですが事態は超大型巨人が再び襲来したことによって急変します。壁が破壊され人類は再び巨人の侵攻を許してしまいます。

エレンたち34班も前線へ駆り出されることになります。しかし初陣に臨むエレンはもうあのときのエレンとは違います。巨人と戦う術を身につけた、勝つために必死に考えた、調査兵団をともに志す仲間ができた。オレたちは自由だ!

(ここで、この物語は34巻で終わるということはこの34にも何か意味があるのでは…などと考えた人は立派な妄想考察屋です。頭冷やして)

巨人の群れと遭遇した34班はアルミンを残し全滅という結果に終わりました。さらにあのエレンが巨人に喰われてしまいます。そして2巻へつづく。

この世界はそんなに生易しいものではありませんでした。そこにあるのは圧倒的な力の差のみ。この残酷な世界を最初の1巻目でここまで描く漫画が他にあったか?

では、あんなに必死に訓練したのは果たして無駄だったのでしょうか? 奪われないために努力することも、巨人のいない世界を夢見ることも、実は意味なんてなかったのでしょうか?

そうじゃないよねという話がこの先延々と繰り返されます。最終的な「風立ちぬ」の結論と同じです。人間は立て続けに起こる不条理に対し、どうあるべきなのか?

この1巻のラストで起こったエレンが喰われるという不条理に対し、ミカサとアルミンは何を考えていたのかを見ていきます。

エレンを自分のせいで死なせてしまった(と思っている)アルミンは己の無力さを悔やみました。そしてこの世界が「元から地獄だ」と悟ります。

この残酷な世界に、アルミンは一度屈しかけてしまいます。こんな世界で自分の友だちは強くあろうとした。でも自分にはできなかった。果たしてこれで対等な友人と呼べるのか?

ミカサに話を移します。ミカサはすでにアッカーマン一族の力を覚醒させており、この世界を生きるのに十分すぎる戦闘力と強靭な精神力を持っていました。何より覚醒の過程で「この世界は残酷だ」と理解していました。

そんなミカサでもエレンの一報には動揺を抑えられません。そして行動でそれをかき消そうとします。私は強いと。

スタンドプレーでミカサは立体機動装置のガスを失い、さらに2体の巨人に遭遇する窮地に立たされます。そんな中思い出したのはエレンとの思い出でした。そして「この世界は残酷だ…そして…とても美しい」という境地に到達します。

このときのエレンは33巻(アニメ完結編前編)でキヨミの口から出た「ただ損も得もなく他者を尊ぶ気持ち」を持っていたのかもしれません。強盗に攫われた自分を救い、帰る場所を与えてくれた記憶が、マフラーを巻いてくれたエレンとの思い出が自分を支えていたことにミカサは気づきます。ミカサは、世界が残酷だからこそ、こんな世界にも生きる価値はあるのだと理解したのです。だから「そして」なのだと思います。

一度は生きることを放棄したミカサでしたが、「死んでしまったらもう…あなたのことを思い出すことさえできない」ともう一度立ち上がる決心をします。

わたしが全編を通して最も好きなシーンがこの場面です。中学生のとき衝撃を受けたのを今でも覚えています。もし愛する人が死んでしまったら、自分もいっしょに死のうと考える人も少なくないはず。しかしミカサはそうは思いませんでした。死ぬということは何もできなくなるということ。でも生者だけが死者に生きていた意義を与えることができる、それが自分にはできるとミカサは気づきます。このシビアな考え方と純愛の美しさにわたしは心を打たれました。当時はここまで言語化できていませんでしたが、なんかすごいもん見た!と一人テンションが上がっていたのが懐かしいです。

ミカサが思い出したのはエレンとの美しい思い出だけではありませんでした。それは「戦わなければ勝てない」というこの世界の掟です。

この残酷な世界を生き抜くには戦うしかない。そのエレンの生き様が、なんの力もない少女だったあの日のミカサを変えました。それを再確認したミカサはもう一度この不条理に抗うことを決意します。人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!! ミカサはこのとき誰よりも強き心を持った「自由」な存在へとなったのです。

アルミンに話を戻します。巨人に喰われたはずのエレンが謎の巨人のうなじから出てきたことで、エレンが「人か? 巨人か?」と疑われてしまいます。

なんとかこの場を切り抜けようとするエレンとそれに付いていこうとするミカサ。そんな中アルミンは再び己の無力さに直面します。自分は臆病者以外にはなれなかったのだと。

しかしエレンは違いました。エレンはアルミンの正解を導く力を信じ、駐屯兵団を説得してほしいと頼んだのです。アルミンはこのとき自分の役割を理解しました。自分の役割は恐怖や疑念、つまり精神的な壁を取り払い誰かを自由にすることなのだと。

アルミンは元々、この壁の中で数少ない自由を夢見ていた人物でした。外の世界へ興味を持ち、理解したいから見に行きたいのだと勇敢にエレンに夢を語っていました。アルミンには生まれ持った勇者の素質があったのです。

アルミンは初めて勇気を振り絞り、不条理に立ち向かいました。立体機動装置を捨て無防備になり、そして堂々とエレンは人類の敵ではないと説得を試みます。この通過儀礼を乗り越えたアルミンは誰よりも勇敢な真の主人公へとなったのです。

(個人的な解釈ですが、エレンが主人公だとするとアルミンは真の主人公、ライナーは裏の主人公、ジークは超えるべき思想を持ったラスボスと考えています)

エレンの巨人化能力を利用したトロスト区奪還作戦が展開される中、アルミンはエレンに問います。どうして外の世界に行きたいと思ったの?と。

「オレが! この世に生まれたからだ!」

エレンは怒っていました。人間は生まれたときから自由なはずなのに、それを奪うやつらがいると。自分の運命は、自分が生まれたからには自由に決めていいはずなのに。だからそいつらから自由を取り戻すのだと。どれだけ世界が恐ろしくても、どれだけ世界が残酷でも、戦え、戦えと。

自由を求めたエレンの姿は、人類の怒りそのものでした。そして人類は初めて、巨人から奪われた領土を取り返すことに成功したのです。

ここまで主要キャラクターであるエレン、ミカサ、アルミンについて焦点を当ててきましたが、本章の最後を締めくくるのは普通の人代表であるジャンについてです。

ジャンは状況判断力に長けており、それ故登場当初は「人類は巨人に勝てない」という立場で、不条理に抗うことを放棄し自分のことしか考えていませんでした。

そんなジャンに転機を与えたのが同期であるマルコの死でした。人知れず死んでいったマルコが火葬されるのを見ながら、ジャンはマルコとの最後の会話を思い出します。ジャンは強い人ではないから弱い人の気持ちがよく理解できる。そして今何をすべきか明確にわかると。

ジャンは分かっていました。戦う力を持った者が戦わなければならないと。自らを偽ることを嫌うジャンは、自分の良心に気づいていたのです。

誰のものかも分からない骨の燃えカスを握りしめ、ジャンは調査兵団になることを決意します。ジャンは「不条理を受け入れるその他大勢」から「不条理に抗う自分が好きになれる自分」を自ら選んだのでした。

自分の良心に対して誠実であること。本当になりたい自分になること。これもまた、この作品が描く自由の一つの形なのだと思います。

『進撃の巨人』は通過儀礼の話であるとも言えます。ここから多くのキャラクターが、訪れる困難・不条理に対してどう立ち向かうかが描かれていきます。不条理に対し、人の心は自由であれるのでしょうか?

次回は自由の象徴である調査兵団が主軸となる5〜8巻です。


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