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ナオコライフ108 春はぶらつく季節

2023.4.14春はぶらつく季節

3時過ぎ起床。コーヒー淹れる。花はもう少しあとでよかったのに、とわけのわからぬことをおもう。まだ寝ぼけている。5時、鳥が鳴き出した。いつもこの時間だ。最近、欲が落ちてきたような気がする。ただただ、こうやって書くことが続いていけばいいとおもう。

時というのは満ちるのか。過去も現在ももしかしたら未来もいっしょになっている。わたしはわからない、でも感じるだけだ。

朝ごはんをゆっくりすませ、ゴミ出しにいく。そしたら、高校の時の先生が庭の剪定をしている。適度にやるとな、木が調子よくなるぞ、と。わたしもやろう。さっそくとりかかる。枝が重なっているところをめざして、柿の木、藤、カエデ、雪柳、柚子、金柑の枝を剪定する。今まで木の剪定はおもいきりがなくてできなかったけど、はじめてできた。先生にきっかけをいただいた。しばらく休んで、部屋で紅茶を飲みながら音楽を聴く。山で鳥が激しく鳴いている。

昼ごはんにきつねうどん。油揚げ煮を母がつくってくれる。くり返し食べる我が家の定番料理だけど、ネギと七味唐辛子で飽きないで食べている。

今日はどうしてもお茶しに出たくてスタバにきた。最近お茶の日が増えている。暖かくなってきたから、外に出やすくなったのかもしれない。北山耕平『地球のレッスン』を久々に読む。この地球に生まれたすべての人のために書かれたような本。わかりやすい言葉でとても深遠なことが書いてある。魂のことを考えつつ、この体をもって生まれてきたことを考える。なぜ、この体がないといけなかったのか。当たり前すぎて忘れてしまうこと。

買い物したあと、図書館に寄る。中庭で椅子に座って風に吹かれる。スタバよりここのほうがいい。ここはいつ来てもいい。

夕ごはんまでゆったりする。出かけていた母が帰ってきて、支度しはじめる。わたしはなんだか疲れ気味で千キャベツを切ってもらう。今晩は生姜焼き。今日は母にやってもらってばかりだ。



2023.4.15だんらんはむずかしい

4時半起床。コーヒー淹れる。雨がぼつぼつと降っている。いい朝だ。頭も冴えて、心も穏やかだ。一日中こんなに降ってもらいたいくらい。雨の中、鳥も鳴き出した。鳥が起きる時間は正確だ。每日決まって5時。わたしも決まって台所に座っているということだ。少し読書する。白湯を飲む。

母が起きてきた。昨日剪定した枝を乾かしてあるのが濡れちゃったね、と話す。朝ごはんは目玉焼きのキャベツ煮添え、母はパン、わたしは糖質オフのフルグラを食べる。食べ終わって、ふすまの向こうで母がテレビを見ている。このふすま一枚に少々重い隔たりがある。親子だけど、だんらんがほとんどできない現実。しようとおもったらできるのかもしれないけれど。むずかしいな。

母が出かけていった。緑茶を淹れる。今日みたいに母がすぐに昼に帰ってくる場合と、一日不在の場合とこんなに違う感覚なのか。おかしいのはわたしの寂しがり屋具合で、家の中では一人で居たがるのに、実際はどうだ。寂しがり屋でしかない。この歳で情けない気もするが、人間はそんなものかと、一人で納得する。雨の庭に出て、庭を感じる。

植物をなるべく部屋に置かない主義なところがある。それは植物の存在を感じ取り過ぎてしまい、こちらが神経質になってしまうから。この話をすると敏感だといわれるが、観葉植物などとくに話しかけられているような気になる。どきっとする。植物と会話するという表現だと特別いい感じがするけれど、存在が怖いとなると問題ある。でも、これは部屋の中に限った話。むずかしい。

コーヒー淹れる。静岡で買ったマンデリンの豆。今のところ、一番好みの味だ。苦味とコクが強くて、酸味が弱い、深煎り。今日は書いていてどうも饒舌になる。雨のせいか。めずらしく二杯目を淹れる。

お昼にお好み焼きを作って母を待つ。すごい雨。母帰宅。めずらしく会話もはずむごはん。

午後は部屋にて。活字を追う気になれず、目の前に本はたくさんあるっていうのに。音楽を聴いたり、ぼんやりしたり、うとうとしたりする。ただ、雨音がするのが救いで、こんなわたしの暮らしもいいよーといってくれている。ぽつねんとする。コーヒー淹れる。

母も昼寝していて、なかなか起きてこない。いつものごはんの時間はとっくに過ぎているけど、慌てて起きてきて、やっと夕ごはんに。ほうれん草鍋であっさりと。二人いれば立派に鍋になる。






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