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ナオコライフ129 故郷の街をぶらりと周る

2023.5.26故郷の街をぶらりと周る

4時起床。コーヒー淹れる。ずいぶん、さっぱりとした朝だ。もう鳥が鳴いている。外は真っ暗なのに。昨日カフェでおすそ分けにいただいたパンをつまむ。白湯を飲む。読書する。読むことにあまり重要さを感じない本を読みはじめると、さっとやめる。本には出会いがあるから、出会ったときの歓喜と言ったらない。もう夢中だ。まだまだ生きれるなら、まだまだたくさんの本たちと出会える。わたしはわりに再読することが多い方で、本棚やダンボールから取り出してはちょこちょこと読むところがある。最近本は捨てられなくなってきた。

母は今朝は早い。カーテンを開ける音が聞こえてくる。朝ごはんの支度をはじめる。玉ねぎ味噌汁、卵焼き、納豆、玄米。食後に母の日に送られてきたゼリーをつるんといただく。美味。台所に生けてあったドクダミから二つ目の花が咲いてくれた。

母と出かけるタイミングが合い、大きな図書館まで送ってもらう。返却し、読みたい本がみつかりまた借りる。そのまま本屋へ。わたしはどこまで本を手に入れたいのか。図書館で借りた本の傾向が偏っているので、本屋でタイプの違う文庫を買う。来週雨が降るから今から準備しているのだ。晴れた日は、雨の日の分まで出かけたくなる。ドトールにいる。相変わらず空いている。だからいい。だからといって、ほとんどいくところがないっていう寂しさ。故郷の街がすたれるっていうのは、なんだろう。だからわたしはこんなに本ばかり読んでいるのか。ドトールを出てフェアトレードを扱う雑貨屋とナチュラルな雑貨屋を二店周ったが、目ぼしいものがなかった。お財布との相談もある。

お昼どきの商店街を久しぶりに目にして、人が出ていて賑わっていたり、知らないお店ができていたり、そんなことがうれしくて、新しい韓国料理食材店で冷麺を買う。帰宅する。

お昼にホットケーキで大喜びする。まるで子供だ。それでも、ジャムを付けてたべるのは格別だ。紅茶といっしょに。

部屋に帰ってきたら、急に読書欲が衰え、ぼんやりとする。コーヒー淹れる。時々自分が病気なのを忘れそうになることがあるが、それは薄れてゆく古傷であったり、それも貴重な出会いによる比較的長い間の浄化作用があったりする。あなたに助けてもらっているのだから。今、人生の中で貴重な時間を過ごしていることに、もっと自覚的になった方がいい気がする。そして、夕方になる。

母がつくったカリフラワーのクリームスープと、茹でチンゲン菜のにんにく醤油ソースかけ、茹でそら豆。おいしくいただきました。



2023.5.27いつかのことを考える

4時半起床。コーヒー淹れる。今日はなにも予定を考えてない。さて、どうしよう。なんでも気が向くままに動くから、自分をほっておけばいい。そういえば、コーヒー豆がなくなるから買い足さないと。少々寝不足な朝でぼんやりしてる。

緑茶を淹れる。母も起きてきたから、また緑茶を淹れる。ごはん時、美術館行きのシャトルバスがなくなって残念だよ、というと、お母さんいかないから関係ないわ、と返ってきた。わたしは怒った。人の気持ちに寄り添う言葉がない、わたしには関係ない話という態度。母と話してると每日がこんな感じなのだ。朝ごはんは台無しだ。まあ、こんなことも日常茶飯事、洗濯機の音でかき消されていく。ボッサ聴いて落ち着ける。

快晴でよかった。自転車に乗ってモールまで走る。突っ走る。コーヒー豆を買う。正直に朝からあれこれ疲れてしまって、カフェで休む。瀬戸内寂聴・藤原新也『若き日に薔薇を摘め』往復書簡。なぜか家では読む気になれず、カフェで読みすすめる。そんなことってある。この本に限らず、最近カフェで読む方が集中する。帰宅する。

ピザを焼いてたべたあと、へやで少し寝る。だいぶすっきりする。

大切な人を受け容れようとするとき、その人の死さえも寄り添えるのかどうか、そこまで考えないと、簡単には近づけない。少なくともわたしはそうだ。簡単には身動きが取れないのをわかってもらいたい。なんにも知らないのに、それなのに、そんなにぽんぽんと話をすすめられない。

コーヒー淹れる。それでもまた眠くなる。夕方のへやでぼんやりする。午後5時過ぎから夕ごはんの準備にとりかかる。スローな音楽を聴きながら。豚ひき肉なすオクラ炒め、茹でそら豆、冷奴。穏やかに話しながらのごはん。







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