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食器棚の片づけ、父と器

朝方、母が起きる前から、食器棚の片づけを始めた。思い立ったが吉日。もう、前からやろうやろうとおもってたこと。ずっとできずにいた。立ち上がるときがいきなりやってくる。


食器棚の手前の方を出して、奥の方の使ってない、もう使うことはないものをごそごそと出し始めた。皿や湯呑、大きな急須まで。料理の移り変わりというのも関係ある。茶碗蒸しの器も、母が起きてきて捨てていいといっている。さんざん作ってくれたけど、もう作る気ない様子。時代を感じる。


そもそも、父も母も器好きで、その影響あってわたしもこの10年買っている。だからといってそう多くはないけれど、それでも食器棚はいっぱい。どれだけ、ごはんの時間が楽しく感じられるか。わたしは時間にお金を払うところがある。器はものだけど、例えばこう考える。お気に入りのコーヒーカップで飲むことで、極上の時間を手に入れることができる。カップを買うということは、その使う時間にお金を払っている。そう、解釈している。家族の時間に、ひとりの時間に、それぞれおもいを馳せる。そして、器をえらぶ。


父は、元気な頃よくひとりで骨董市に行っていたが、買ってきたものをあまり見せてもらえなかった。母が買い物に対して無駄遣いという価値観なので、父は買ってきたものは倉庫や会社に隠していた。わたしが今こんなの探してるの、と話すと、あるぞと言って出してくるのだった。出番が回ってくるまで見せたりしないのだ。そんな父の癖がすっかり移ってしまった。わたしも買っても開けたりしないで、押し入れにいくつかしまってある。器が熟成する。それが楽しくてしようがない。わたしは父の背中を見て育ったので、おんなじことをする。


今ごはんのとき物足りないのは、父がこれいいな、と器をほめてくれないこと。当たり前のことだったのに。父と器。


日曜に、いつもの店での砥部焼展へ行ってきた。やはり、民藝は素晴らしい。


砥部焼中田窯四寸小鉢加彩山帰来


それでは、またお会いできますように。
ありがとうございました。

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