リトアニアで気づいた「甘え」が許されない日本社会
先日、1週間リトアニアにて
難民に対する心理的ケアの研修を受講した。
ギリシャの国際NGOスタッフが講師として
アイルランド、リトアニア赤十字のスタッフとともに
集中的に学ぶ良い機会だった。
研修中にリトアニアNGOの心理サポートの
専門家から
「Amaeについてどう考えているか」
と質問を受けた。
英語で会話している流れで
一部日本語が含まれていたため
最初意味が理解できなかった。
AMAE?
英単語力が不足しているのかと一瞬悲観したが
「甘え」とようやく解釈することができた。
彼女は、土居健郎(1971)『甘えの構造』から
「甘え」と人間の心理について興味を持っていた。
土井は、甘えを次のように定義している。
リトアニア人から「甘え」の概念について
意見を聞かれた時、私はこの概念について
ネガティブな捉え方をしていた。
「甘え」=「甘い」「甘やかし」「甘ったれ」
といった自己解釈で大人が社会で
自立できない要因として認識していた。
リトアニアで留学して1年が経過して
「甘えの構造」に触れた事で
いまだに日本の企業戦士時代のマインドセットが
こびり付いていることを痛感した。
そもそも甘えとは何か?
土井の著作を解説しているYoutubeによれば
下記のように
①人類共通の心理
②日本人特有の語彙で西洋諸国では「甘え」の明確な訳が存在しない。
③一体感を求める心理
に分類される。
「甘え」の文化は、
非言語コミニケーションの象徴であり
相手の感情を読み解く「察する」ことも
甘えの概念と密接に関係がある。
昔は、子どもにとって家族は絶対の安全環境で
「甘えられる」環境であった。
しかし、時代の変化ともに子どもが
甘えられなくなった事に警鐘を鳴らして
1971年に「甘えの構造」が出版された。
この本が出版されて半世紀が過ぎて
日本社会は若者の精神疾患が深刻化しているのは
「甘え」が許されない事が関係していると強く思う。
子どもだけでなく、
「大人」も心の拠り所・セーフティーネットとなる
「甘えられる」環境が必要。
正直なところ、最近無意識に
メンタルが切迫していたことに気付いた。
6月に大学院の授業が終わり
時々の旅行、就活の書類作成とNGOの
インターンに勤しんでいた。
インターン先のNGOでは
ロシア語・ウクライナ語が出来ない私は
ウクライナ語イベントを録音して
AIを活用して報告書作成や組織のかゆい所に
気を配る等で役割を全うしていた。
ウクライナ人の上司からも評価されているのは
大変有難いが、ウクライナ人しかいない環境で
自分の分からない言語環境に数時間身を置くのは
大変骨が折れる時間だ。
気付かなかったが、
この環境に「孤独感、閉塞感」を
感じていたことにようやく気付いた。
また、今回のNGOの研修でも
ランチの時間に同じ席になった
ウクライナ人同士でずっとウクライナ語で
会話され、虚無感に襲われた。
みんな英語喋れるんだから英語で会話してーー
と心の叫びを感じながらのランチは
苦痛そのもの。。。
そんな中で新学期が始まり
気を許せるクラスメイトたちと久しぶりに
バーで飲む機会があった。
疲弊していたメンタルの中で
久しぶりの再会に心が躍った。
彼らには『甘えられる』と感じた瞬間でもあった
こどものように密着した「甘え」でなくとも
大人も甘えられる環境や人の存在が絶対必要。
日本社会には、人に適切に「甘える」というのが
許容されていない。
あるいは、人間関係が希薄で
「甘える」だけの環境や甘える相手がない。
それ故に、人に甘える技術が乏しい。
『甘えと日本人』(土井、斎藤, 2009)では
「上手に甘えるには相手との距離をうまくつかみ
隙を見つけて相手の懐にサッと入り込む動物的な
反射神経が必要」と説明している。
斎藤は、甘い考えを持つ人いるが
甘えるワザが無いと分析している。
いま日本人に必要なのは
上手に人に甘えて、
周囲を巻き込んでいく力ではないか。
そのための第一歩として、ぼくらは
「助けて」
「こんな事が苦しい」
ともっと叫んで良い。弱音を吐いて良いのだ。
人間の本当の強さとは
自分の弱さをさらけ出せる事だ。
プライベートも仕事も
上手に甘えることが大事だと痛感した。
参考
・【名著】甘えの構造|土居健郎 手遅れになる前に知っておきたい、「甘え」の重要性 https://www.youtube.com/watch?v=zHvR-9dwAoo
・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E3%81%88%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0