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黒沢清『勝手にしやがれ!!』シリーズにおける OVからの逸脱

前書き
この文章は学部の卒業論文として書いたものです。いきなり映画じゃなくてOVの話だから右京さんばりに「はい?」という感じですが、そのへんはご愛嬌。内容は、遂に銀獅子賞まで取っちゃった映画監督、黒沢清の相対的に知られざる作品『勝手にしやがれ!!』シリーズ(1995~1996年)です。前半は「そもそもOVって何?」という話、後半は『勝手にしやがれ!!』についてです。3万4千字オーバー。加筆、修正は最低限に留めています(これ言ってみたかった)。


序論

黒沢清は現代の日本映画を代表する監督の1人である。通説では、『CURE』(1997年)で世に衝撃を与え、一躍Jホラーの旗手となり、以来コンスタントに作品を撮り続けているが、『CURE』以前のOV作品にかんする論はほとんど皆無である。とりわけ『勝手にしやがれ!!』シリーズに言及するものは少ない。本シリーズは、『勝手にしやがれ!! 強奪計画』(1995年)、『勝手にしやがれ!! 脱出計画』(1995年)、『勝手にしやがれ!! 黄金計画』(1995年)、『勝手にしやがれ!! 逆転計画』(1995年)、『勝手にしやがれ!! 成金計画』(1996年)、『勝手にしやがれ!! 英雄計画』(1996年)からなる全6本のOVだ(以下、副題のみ記す)。『贖罪』(2012年)や『予兆 散歩する侵略者』(2017年)といった連続ドラマを除けば、黒沢がまとまった一定の量のシリーズものを手掛けたことはないため、作家論的にも『勝手にしやがれ!!』シリーズは論じられてしかるべきだが、これらにかんする議論はいまだ充分に尽くされているとは言い難い。
本論のねらいは、黒沢清の『勝手にしやがれ!!』シリーズがいかなるOVなのかを明らかにすることである。とはいえ、この問いに答えるためにはある事柄を事前に明確にしなければならない。つまり、OVとは何かである。無論、『勝手にしやがれ!!』シリーズを「映画作家」黒沢清の一作品として捉える作家主義的なアプローチも可能であろう。しかし、本論はそうした方法を積極的には採らない。『勝手にしやがれ!!』シリーズをすでに確立された「映画作家」黒沢清の側から語り直したとしても、その営みはあまりに円環的で、閉じられているからだ。繰り返すが、『勝手にしやがれ!!』シリーズをあくまでOVの文脈に位置付けることで、本シリーズの新たな一面を浮き彫りにすることが本論の目標である。そのためにはまず、OVがいかなる映像媒体であり、人々がOVをどのように捉えていたのかを明らかにする必要があるだろう。
以下、本論を概観する。第1部ではOVを歴史と言説という2つの角度から見ていく。2018年現在、OVは誕生から30年以上経っているものの、残念ながら概説書の類はない。したがって、第1部では紙幅を多く割き、OVの全体像を可能な限り明瞭にする。これを踏まえ、第2部では、『勝手にしやがれ!!』シリーズを物語、製作環境、作家の視点から考察する。

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黒沢清

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『勝手にしやがれ!! 脱出計画』

第1部 OVをめぐって

第1章 OVの歴史

第1部では、黒沢清の『勝手にしやがれ!!』シリーズを考えるに当たって、OV全般の歴史と、それにまつわる言説を振り返る。膨大な作品量とアクセスの難度から、ややあいまいな輪郭にならざるを得ないが、OVの全体像を結ぶのがここでのねらいだ。はじめにOV史を辿っていこう。
とはいえ、OVとは何か。ごく簡単に定義づけるならば、OVとは劇場公開を前提としないビデオ専用の映像作品である。その裾野は広く、実写作品からアニメーション、スポーツの指導教材や、プレゼンテーション技術を身につけたい会社員向けの映像に至るまで、OVは様々な顔を持つ。
OVを見る者は、レンタルビデオショップで借りるなり販売店で購入するなりして手に入れ、個人的に鑑賞する。映画とOVの最大の違いは、この受容の仕方にあるといえるだろう。前者はスクリーンに掛けられ、観客はどこの誰とも知れぬ他人と座ったまま粛々と同じ方向に視線を投げ続ける。彼らは時に隣人に迷惑をかけぬよう声を殺して泣き、時に館内で一斉に笑い、あるいはそうした反応に差異が生じたときには自他の感性の違いに気付くだろう。一方、後者は映画館よりプライヴェートな空間においてテレビのブラウン管ないし液晶画面を通してのみ見る者の前に姿を現す。OVは赤の他人と見るような媒体ではない。つまり、OVと映画は人々の視線にさらされるまでの流通経路が大きく異なるのだ。
ただし例外もある。たとえば本論で扱う『勝手にしやがれ!!』シリーズもはじめからビデオソフトとして生を享けた訳ではなく、銀座シネパトスなどで上映され(*1)、しかる後レンタルビデオショップの店頭に並んでいたという(*2)。
他方テレビに目を向けると、両者の決して浅からぬ関係も見えてくる。そもそもOVは企画段階からして「テレビコードを無視できるビデオの特長を最大限に活かす」(*3)という、今日の動画配信サービスにも通じるような対テレビ意識が明確に打ち出されており、詳しくは後述するが、その方針の下でアクションやポルノがテレビに比べると過激な方向へ進み、その作り手のなかにはテレビ出身の人々もいた。むしろここで注目すべきことは、OVがテレビの資本に頼っていた例だ。東映Vシネマ黎明期の作品のひとつである『狙撃/THE SHOOTIST』(一倉治雄、1989年)がそれに当たる(以下、『狙撃』と記す)。というのも、この作品は東京放送(TBS)が製作費を半額出資していると書く者がいるからである。あくまで「表面には出ていない」この情報を記事の筆者がなぜ知り得たのか、確かな証拠はあるのか、さらには、テレビコードと無関係な場所で作られていたOVがなぜテレビに接近するのかといった、信憑性にかけ矛盾を孕む記述への疑問は尽きないが、しかし、出資の代わりに東京放送が『狙撃』のテレビ放映権を獲得したという記述は興味深い(*4)。事実、『クライムハンター 怒りの銃弾』(大川俊道、1989年)と題されたOVは発売から約1年後に日本テレビで放送されているのだから、テレビでの放送を前提に作られたOVがあったとしても不思議ではない(以下、『クライムハンター』と記す)。『狙撃』にかんする情報が仮に事実ならば、OV制作会社が作品を撮り、その放映権を出資元のテレビ局に渡す構図は、撮影所崩壊以後のテレビ局と映画会社の関係にもそのまま転用可能であろう。撮影所なきあとのOVとテレビの関係性についてはこのあとも詳しく見て行く。さて、こうして考えると、OVはビデオソフトとしてのみリリースするという前提は誕生当初から破られてきたことが分かる。いや正確には、黎明期においては破られる前提さえ未成の状態にあったといっても過言ではない。生まれたばかりのOVは、自らを規定することさえままならなかったのだ。
このように複雑な背景を持つOVだが、いまだ研究が充分になされているとは言い難い。その主たる理由のひとつに、アクセス不可能性が挙げられる。つまり、単純に見ることができないのだ。どういうことか。

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三池崇史

今日、映画作家として扱われる人々のなかには、かつてOVを監督した経験を持つ者も少なくない。たとえば『殺し屋1』(2001年)の三池崇史は、『DEAD OR ALIVE 犯罪者』(1999年)で一部からの熱狂的な支持を集めていた。賛否はあれど現在では海外からも評価され、一定の地位を築き上げた三池のOV作品なら、若き日の習作として容易にアクセス可能である。だが、作家たり得なかった人々が監督したOVはどうだろう。膨大な在庫を誇るレンタルビデオショップの収容量にも物理的限界はあり、次々現れるOVすべてをしまうスペースはない。そのため、基本的には回転率の低い商品は店頭を去り、人々の視界から遠ざかっていく。そのまま廃盤にでもなってしまえば、なおのこと不可視化される。このような棚替えなどを理由に、OV全体を捉えようとすることは極めて困難であり、OV研究を妨げる要因のひとつになっている。そのような状況下で「作家」黒沢清の習作程度にしか扱われていない『勝手にしやがれ!!』シリーズを見つめ直すのが本論のねらいである。
前置きが長くなったが、OVの歴史に戻ろう。通説では、1989年、東映Vシネマ第1弾として発売された『クライムハンター』が、OVの幕開けを告げる作品だとされる。『若者気分の基礎知識』(山岸弘人、1985年)や『俺ら、東京さ行くだ』(栗山富夫、1985年)など、その数年前から、映画館での上映をスキップしてソフトリリースするOVは散発的に登場していたものの、大ヒットを記録した『クライムハンター』がOVを世に知らしめたというのが実情である。ヒットといえど、レンタルビデオショップに揃えてあるOVのなかで『クライムハンター』が飛びぬけて売れたという意味ではなく、店舗全体でのレンタル数上位に食い込んだのだ。事実、単館ロードショーで公開された映画のビデオでさえ1万本を売るのが難しいとされた時期に、『クライムハンター』は初回出荷で1万8千本を売り上げたという。そうしたヒット作品に他社が乗らない手はない。OV事業に新規参入する製作会社だけでなく、松竹やにっかつといった歴史的な映画会社も直ちに東映に後続するのだから、爆発的なOVブームが巻き起こったことは明らかである。

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『クライムハンター 怒りの銃弾』

具体的に作品を見ていこう。Vシネマなるブランドを立ち上げた東映は、『クライムハンター』を皮切りにヒット作を連発し、量産体制に入る。第1弾から半年を俟たず、仲村トオル主演の『狙撃』が、さらに年末には『クライムハンター2 裏切りの銃弾』(一倉治雄、1989年)なる続篇が発売され、これらはいずれも2万本以上の初回売り上げを叩き出す。東映は翌1990年4月から毎月1本OVを発売するというレギュラーリリースに打って出るが、これもまた好成績を残し、同年10月からは月2本への増加を果たす。そしてこのころ、本論と深い関係にあるVシネマ、『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ~』(高橋伴明、1990年)が発表される(以下、『ぴゅ~』と記す)。1990年5月11日に発売された本作は、俳優哀川翔の鮮烈なイメージを人々にもたらした。歌謡曲「前略、道の上より」で知られる歌手グループ、一世風靡セピアのメンバーとして80年代を過ごした哀川は、グループの解散後、俳優に転身する。すでに芸能活動を行っていたことから、決して無名とはいえない座についていた哀川は、転身後まもなく『ぴゅ~』でOVデビューと初主演を飾り、やがて200本を超えるOVに出演していく。このような驚異的な俳優、哀川翔の出演作を見るに当たって、第1回主演作品である『ぴゅ~』は今日でも注目される。暴力団組長の吉田(峰岸徹)の下ではたらく幼いチンピラの水田(哀川翔)は、吉川の兄弟分を殺した風間組へ送られる鉄砲玉のひとりに指名される。しかし、水田は拳銃を手にしてもなかなか踏ん切りがつかず、「ぴゅ~」、つまり敵前逃亡を望むばかりだ。ほかの鉄砲玉要員は消え、ついに水田だけが残った。恋人の夢子(青山知可子)に背中を押された水田は風間組へと向かっていく。このような重苦しい葛藤を背負った題材とは反対に、物語は喜劇調で展開する。哀川の洒脱な演技が功を奏するのは、まさにこのようなコメディの領域においてだ。調子づけて話すためにわずかに揺れる首や、語尾の母音を引きずるような鼻声が、次第に精彩を放つようになる。この絶妙かつ魅力的な軽さを活かしたのが『勝手にしやがれ!!』シリーズだが、真に注目すべきはこの軽妙な主演俳優ではなく、『ぴゅ~』において製作進行としてクレジットされている下田淳行なる人物である。詳しくは第2部で後述するが、彼こそが『勝手にしやがれ!!』の生みの親といっても大げさではないのだ。

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『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ~』

また、撮影所時代の監督を盛んにOV界で起用した点は、ほかのOVと異なる東映Vシネマ独自の風習といえるだろう。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)や『残酷異常虐待物語 元禄女系図』(1969年)でぎらついた原色を用い、凄惨にもかかわらず耽美的な異常性愛の世界を描いた石井輝男は、テレビドラマの演出家として80年代を過ごしたのち、『ザ・ヒットマン 血はバラの匂い』(1991年)で東映に復帰する。『十三人の刺客』(1963年)など多くの時代劇を手掛けた工藤栄一が、萩原健一主演のOV、『裏切りの明日』(1990年)を監督したのも同時期のことだ。『クライムハンター』の好調を機に、OVへのさらなる投資を決めた東映ビデオなる東映の子会社は、自陣のコネクションを精一杯使う。石井輝男や工藤栄一といった大家がひところ勃興したに過ぎないビデオ作品の演出を請け負ったのもこの流れにおいてである。映画会社東映が有するスタジオや撮影機材、人員といった従来の基盤をフルに活用し、全国に11社の系列販売会社を有する東映ビデオの成功は、この固有のネットワークなくしてあり得なかったのだ。
一方、他社はどのように過ごしていたのか。答えは簡単で、みないっせいに東映に右に倣えしてOVを撮り始めたのだ。主要な映画会社もこの例に漏れず、ロマンポルノ路線を廃したにっかつは、にっかつビデオフィーチャーと冠したブランドでOV製作を始動し、『首都高速トライアル2』(片岡修二、1990年)に代表されるようないわゆる走り屋ものを、松竹は、『ディープ・スロート』(ジェラルド・ダミアーノ、1972年)の日本での輸入公開に尽力した向井寛が監督した『女刑事サシバ』(1990年)をはじめとする、SHVシネマと名付けられたOVをリリースしていく。これらに比べて規模の小さな会社はさらに存在したようだが、倒産のため記録が残っている会社は少ない。だがしかし、少ないながらも重要な情報源から、われわれはある地平を切り拓くことができる。
バブル経済を背景に、東映や松竹といった古株の映画会社に比べると、決して豊かとはいえない資本金を持つ有象無象の映像制作会社でさえ、日本を席巻するOVブームに相乗りしていく。1984年創業のジャパンホームビデオなる会社もそのひとつであった。略称をJHVというこの会社は、『人魚伝説』(1984年)の池田敏春が監督を務め、日本初のスプラッター映画を自称する『死霊の罠』(1988年)を製作したことでも知られているが、主戦場に定めていたのは映画やOVではなく、アダルトビデオである。アダルトビデオ事業は1986年に分社化され、JHVグループ内でアリスJAPANなる自社レーベルが立ち上がる。ここをホームグラウンドに据えたJHVは、現在に至るまで継続してアダルトビデオの製作を継続するが、かたやOVからは手を引くことになる。ここで問題となるのは、JHVが『死霊の罠』のような大衆向けの映画作品と同時にアダルトビデオを製作していたことだ。いやむしろ、アダルトビデオ制作会社がOVも手掛けていたといった方が事態を正確に捉えられるかもしれない。つまり、1990年前後に世に氾濫したOVのうち、少なからぬ数のものはアダルトビデオメーカーが作っていたのだ。無論、なかには世良公則主演の『クライムハンター』や草刈正雄主演の『狙撃』のような、大手を振れるかはともかく、昼日中を歩けるようなOVは存在する。しかし、アダルトビデオからそう遠くはない距離に位置するOVが流通していたのも確かである。事実、『勝手にしやがれ!!』シリーズを製作したケイエスエスも、OVだけでなくアダルトアニメやギャルゲームといった分野においても事業を展開していたというのだから、先述のようにハードコアポルノ映画を好んだ向井寛がOVを監督しても、首を傾げる者はいないだろう。
さて、今われわれの眼前に広がるOVは映画が好きで好きで堪らなくて監督になってしまった、「映画作家」を夢みる青年が撮ったものだけではない。一方では清く正しきシネフィルが、もう一方ではいかがわしさを醸す者たちが撮っているのである。
このようなOVのいかがわしき側面を念頭に置きながら、さらにもう1点、レンタルビデオショップの特性について指摘しなければならない。われわれが現在の視点からこの特性を確かめるときは、注意が必要である。なぜなら、OV黎明期のレンタルビデオショップの雰囲気は必ずしも現在のそれと一致しないからだ。
「Vシネマは日本映画を活性化させるか」というそれじたいOVの発展を願ってやまないタイトルがつけられた特集において、当時のキネマ旬報編集長の黒井和男は、「レンタルのユーザーの八○%が十五から三十五までの男性」だと述べる(*5)。この発言には「アクションしか伸びない」と、否定的言辞を用いながら、OVが繁栄する未来を信じ切っている楽観的な言葉が続くことになるが、この数字のとおりならば、新作情報や各映画の出演俳優へのインタビューを届ける女声の店内アナウンスがフロアに流れ、セットレンタルキャンペーンの最後の一枚を何にするか相談しあう若者たちが散見する現在のレンタルビデオ店しか知らない人々からすると、異様な光景が想像されるだろう。つまり、『クライムハンター』がヒットした当時のレンタルビデオショップは、老若男女が集うような明るく清潔な雰囲気ではなく、利用者のほとんどが成人男性である、ポルノ的ないかがわしさを放つ存在だったのだ。
いささか唐突だが、より明確なOV像を結ぶために、ここで1本、テレビドラマという名の補助線を引いてみよう。70年代、撮影所の屋台骨が傾いてくると、映画人たちは職を求めてテレビへと流れた。神代辰巳や深作欣二は『傷だらけの天使』(1974-75年)を演出し、増村保造は『スチュワーデス物語』(1983-84年)の脚本を執筆する。会社が潰れる直前に辞めたという点でやや文脈は異なるものの、鈴木清順がテレビへ移り、ドラマやバラエティ番組、CMの世界において活動したのもこの時期だ。彼らはおもに刑事ものや2時間ドラマの分野において数々の名篇を取り上げるが、折しもバブル時代、その影響でトレンディドラマが隆盛を迎え、映画人たちはまたしても食い扶持を断たれる。そこで彼らを再々雇用したのがOVである。このように、OVは映画やテレビの傍流として常に流れており、その三すくみの関係は無視できない。

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『傷だらけの天使』

流通網にも人材にも恵まれ、かように隆盛を極めしOVはその後どうなったか。結論を先取りすれば、今やOVは不可逆的なほどに消滅したといえる。日本映像ソフト協会、通称JVAが発表した個人向けレンタルシステム加盟店数の統計は、その事実を極めて明確に示している。この統計データは1990年以降の日本国内でのレンタルビデオショップ店舗数の推移を表すのだが、内容に当たる前に、個人向けレンタルシステムという耳馴染みの薄い言葉から確認していこう。
JVAは「映像ソフト(……)にかんする調査及び研究、規格・基準の策定、倫理基準の策定等を行うこと」と、「映像ソフトの普及向上並びに映像ソフト事業及びその関連産業の振興」、加えて「国民生活の向上と我が国の産業経済、文化の発展に寄与すること」を目的に組織され、映像ソフトの売り上げや市場規模、ユーザー動向にかんするデータを定期的にまとめている(*6)。本論ともっともかかわりが深いのは、その調査のひとつである、ビデオレンタル店実態調査だ。JVAの個人向けレンタルシステムの統計はここで用いられる。
「ビデオソフトは『映画の著作物』として著作権法によって保護されていますので、これを公衆にレンタルするには、ビデオソフトメーカーや原作、シナリオ、音楽の各著作権者から許諾を受けなければなりません」と告げるJVAは、このシステムについて、「『JVA個人向けレンタルシステム』は、これらの煩雑な権利処理を避けるために、日本映像ソフト協会が邦画を中心としたソフトメーカー10社から頒布権行使の委託を受け、その他の権利者団体とともに一括して、ビデオレンタルショップを経営される皆様にレンタル業務の実施を許諾することを内容としてい」ると説明する(*7)。要するにこのシステムは、レンタルショップの個人経営者が行うといちいち面倒になり得る著作権関係の手続きをJVAが代行するサービスなのだ。その対価として、JVAはレンタルシステム加盟店の情報、つまり各種調査のための収益や利用客についてのデータを加盟店から貰い受ける。さて、こうして得られた統計を観察していくと、レンタルビデオショップの歴史が、ひいてはOVの歴史がおぼろげながらも浮かび上がってくる。

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表1 2018年度に発表されたJVA個人向けレンタルシステム加盟店数推移(*8)

もはや説明は不要だろう。JVAによる個人向けレンタルシステム加盟店数は1990年をピークに、右肩下がりの一途を辿っている。このグラフが実際のビデオレンタル店数とは異なっていたり、システム改訂や加盟店の整理作業を理由に、たびたび大幅な増減が見られたりするものの、加盟店は徐々に減少しつつあるという大きな流れは一目瞭然だ。時系列で追っていこう。調査当初、1984年末にはわずか514店舗だった加盟店は、1990年末に13529店舗という驚くべき躍進を遂げる。この6年間のうちに既存のレンタルビデオショップが改めてレンタルシステムに参加したケースも多々あるかもしれないが、それにしてもわずか数年内での26倍以上の伸び率はわれわれの関心を掻き立ててやまない。2000年代に入るとグラフはX軸へと漸近していき、2005年ごろまではわずかなポイント上昇、横這いを見せた加盟店数もこの10年で着実に失われている。つぶさに見ればその衰退は鮮明になる。例えば2018年度の東京都の加盟店数を追うと、元日には276店舗の存在が確認されており、全国ナンバーワンの加盟店数を誇っていた都内でも、10月1日には257店舗と、およそ7%の店が1年弱のうちに街から姿を消していることが分かる。低迷の背景には衛星放送の普及や動画配信サービスがあるといえる。要するに、人は街へ繰り出してソフトをレンタルせずとも家で手軽に映像作品を見られるようになったのだ。無論、衛星放送にせよストリーミングサービスにせよ、限られた範囲内で見たい作品を選ばなければならないが、利便性や返却にかかる手間を考慮した際、少なからぬ人がレンタルビデオを選択肢から除外する。重要なのは、レンタルビデオショップとOVは一蓮托生の関係にあることだ。OVがレンタルビデオショップという確たる流通網を備えていたのはすでに見てきたとおりだが、裏を返せばそれは、流通網が潰えてしまえばOVは人々の視界から遠ざかるという意味でもある。かつては栄華を極めたレンタルビデオも、今ではほとんど死に体なのだ。
ところで、1990年以前のレンタルビデオショップ急成長を後押しした原因、つまり、ビデオをレンタルするという行為が瞬く間に人々の間に習慣付いた理由は一体何だろうか。通説では、利便性や興味本位といった単純な事柄に加え、昭和天皇の崩御が指摘される。
当時を振り返り、テレビ研究者の志賀信夫は「日本のテレビ界は天皇ご逝去報道というかつて経験したことのない事態に直面した」と述べる(*9)。何しろ「NHKが昭和六十三年九月十九日の大量吐血以来、六十四年一月十七日まで連続百十一日間に及ぶ終夜放送態勢をとれば、民放は七日朝から丸二日間のCMゼロ放送を実施」したというのだから、その混乱と緊張は推して量るべしであろう。
夕方の子供向けアニメであろうと夜のスポーツ中継であろうと、昭和天皇の体調が著しく変化したときには、体温、脈拍、吐血量などを細かく示す病状報道が逐次テロップとしてブラウン管に表示され、体調不良を訴えて以来、闘病というより生かされていたという表現が妥当な2年間を経ていざ亡くなると、「自粛」の名の下に一切の歌舞音曲が巷から消える。こうした暗澹たるムードが醸成され、娯楽を公的に受け取ることが禁じられると、当然というべきか、人は私的な空間において娯楽を得ようと考える。そこで彼らは直ちにレンタルビデオへ手を伸ばす。「若者が貸しビデオ屋に集まった事実は、平成の多メディア時代のテレビの今後を想起させられた」と回想する志賀は、同時に「取材を許された天皇家の映像のみが各局で大量に放送されたためか、同じ映像と音声だけが何回もくりかえして放送され」たとも綴るのだが、ただでさえ娯楽が制限されるなか、私的な愉しみを許されたはずのテレビから日がな一日同じ映像が流れたことに若者が苦痛を覚えたとしても無理からぬ話である。
事実、崩御後に刊行された『キネマ旬報』誌1989年3月上旬号では、天皇崩御とレンタルビデオ店盛況の関連が指摘されている。このころ『キネマ旬報』では日野康一が「ビデオNOW」と題された新連載を持ち、興隆の兆しを見せつつあったビデオソフトについて書き始める。1981年11月下旬号から1988年10月下旬号まで掲載された連載「ビデオNOW」は、ビデオの新作リリース情報や販売売り上げ数はもちろん、最新のビデオ発売作品の星取りから全国のレンタルビデオ店でのレンタル稼働率に至るまで、ビデオにかんする情報を網羅的に取り上げており、その後も連載名を変えてビデオの情報を載せているのだが、さて、問題の号には次のような記載がある。

新春早々の天皇崩御により、ビデオ・レンタル店は盛況だったようだ。各テレビ局が天皇関係番組一色だったため、キネ旬読者の中にもビデオ・レンタル店へ走った人もおおいのではないだろうか。(*10)

崩御を契機に、ビデオをレンタルする習慣が一般的になった点はすでに同時代において指摘されていたことだったのだ。付け加えれば、同誌が毎月発表しているビデオレンタル総回数ランキングはそのことをさらに明白に物語る。カルチュア・コンビニエンス・クラブ270店舗のデータを基にした調査によると、1万回を超えるレンタル回数を記録したタイトルが12月は第11位までであったのに対し(*11)、1月は第25位までと大きく伸びており(*12)、1990年前後のレンタルビデオの興隆とOVの展開はかくして符合する。黎明期はアクションやポルノのジャンルにおいて盛り上がりを見せたOVであったが、その後、ホラーで目覚ましく開花する。一般には『リング』(中田秀夫、1998年)がJホラーの幕開けとされているが、つとに指摘されてきたように、さらにその前夜、『邪願霊』(石井てるよし、1988年)などのホラーOVが生まれていたのだ。翻って子供向けOVに目を向けよう。従来は成人男性に照準を当てて市場を拡大してきたOVだが、レンタルビデオショップのブームによって雰囲気が「浄化」されたことでポルノ的なムードが剥がれ、戦隊ヒーローものをはじめとした特撮やアニメの分野でも種々生まれつつあった。Vシネマという呼称をすっかり定着させた東映は、『超力戦隊オーレンジャー オーレVSカクレンジャー』(東條昭平、1996年)でスーパー戦隊Vシネマと、また新たなOVを打ち出す。基本的にはテレビシリーズのスーパー戦隊ものの延長線上にあり、勧善懲悪の物語や巨大ロボットが敵と戦う特撮場面などに変わりはないが、スーパー戦隊Vシネマ最大の特徴は、過去に放映されていたテレビシリーズのスーパー戦隊が登場する点である。一年ごとに代替わりしていくスーパー戦隊ものにおいて、先代と当代が共演し、反発しながらも共闘するさまは、長年シリーズに親しんだ視聴者に特別な感慨を与えるだろう。その特別感を味わうことができたのがテレビでも劇場でもなくOVだったのだ。しかし、このように破竹の勢いで発展を遂げていったOVも、2000年以降は激しい落ち込みを見せている。理由は粗製乱造や過度な低価格競争による売り上げ減少とも、多様な映像メディアの台頭によるレンタル文化の消滅ともいわれている。
以上、レンタルビデオショップの移ろいを手掛かりとしながら、OV史を概観してきた。OVは衰退気味の映画とも規制の厳しいテレビとも異なる、自由な小品を作るためのフォーマットとして誕生し、昭和天皇崩御のタイミングで目を見張るような急成長を遂げた。ジャンルもアクションやポルノから、ホラー、特撮へと拡大し、子供までをも取り込み始める。だが成長があまりに突然だったためか、早い段階で供給過多に陥り、まごつく間に衛星放送やストリーミングサービスに大きく水を開けられてしまう。レンタルビデオショップという存在さえ消えつつある点はもはや付言を要すまい。
では、こうした変遷を辿ったOVは、同時代的にいかなる評価を得て現在の視点からどのように振り返られているのか。この問いに答えるべく、次節では複数の雑誌記事を比較、検討する。そしてその検討は、90年代の黒沢清評価とも大きくかかわってくるだろう。

*1 黒沢清『黒沢清の映画術』、新潮社、2006年、155頁。
*2 たとえば『強奪計画』は1995年4月22日に公開、同年7月21日にレンタル開始となっている。公開日は『映画ビデオイヤーブック1996』、キネマ旬報社、1996年、325頁を、レンタル開始日は「勝手にしやがれ!! 強奪計画 レンタルDVD ビデオ ブルーレイ - tsutaya 店舗」、https://store-tsutaya.tsite.jp/item/rental_dvd/050913878.html(2018年12月4日)を参照した。
*3  阿部勇仁「東映Vシネマに見るオリジナル・ビデオ映画の制作面を探る」、『キネマ旬報』1990年5月下旬号、41頁。
*4 同上、41-43頁。
*5 黒井和男、渡辺亮徳「編集長対談」、前掲、37頁。
*6 「協会概要」、『一般社団法人日本映像ソフト協会(JVA)』、http://jva-net.or.jp/outline/(2018年12月4日)。
*7 「JVA個人向けレンタルシステムとは」、同上、 http://jva-net.or.jp/rental/guide_1.html(2018年12月4日)。
*8 「JVA個人向けレンタルシステム加盟店数推移」、同上、http://jva-net.or.jp/report/(2018年12月4日)。
*9  志賀信夫『昭和テレビ放送史』、早川書房、1990年、322頁。以下、次段落までの崩御にかんする記述は同書322-326頁に拠る。
*10 『キネマ旬報』1989年3月下旬号、209頁。
*11 『キネマ旬報』1989年2月上旬号、208頁。
*12 『キネマ旬報』1989年3月上旬号、208頁。

第2章 OV=プログラム・ピクチャー?

OVは今や風前の灯である。その原因を探ることは本稿の狙いとは外れるため詳述は避けるが、手短に述べれば映像メディアの流通網の多様化にともなうビデオをレンタルするという文化の消滅がひとつの理由だと考えられる。そして現状とは対照的に、OV黎明期にはその輝かしい未来を盲信するかのようなナイーブな言説があふれていた。本章では、誕生当初のOVが得た同時代的な評価と、30年弱が過ぎた現在からの評価を踏まえ、人々がOVをどのように捉えてきたのかを明らかにする。
すでに引用した「Vシネマは日本映画を活性化させるか」というキネマ旬報の特集タイトルは、もはやわれわれには悲愴さを帯びた響きとして聞こえてくるが、当時はほとんどの論者がこの問いにイエスと答えていたのだ。同特集において、東映ビデオ取締役の渡辺亮徳は、「一秒で決済するから」企画を何でも持って来いと、後進に向けて発言する(*13)。1989年、まさしくバブル経済の恩恵に浴す渡辺の語気はいささか調子づいているようにも取れるだろう。
だが一方で、数こそ少ないものの、OVに対して否定的な態度を取る人物がいたのだ。否定派の代表格に一倉治雄が挙げられる。一倉は東映Vシネマ第2弾『狙撃』の監督であり、ほかならぬOV誕生の見届け人のひとりである。仲村トオルを主演に迎えた『狙撃』は、後に同じく一倉監督の『狙撃2』(1990年)、『狙撃3』(1991年)へ続くシリーズの嚆矢となった作品で、『あぶない刑事』(1986-87年)など、テレビを主戦場としていた彼がはじめて監督したOVでもある。『狙撃』は『クライムハンター』を超える2万7千本を売り上げたにもかかわらず、OVに抵抗感を覚え、なおかつOVを撮り続けるこの人物は、一体どのようにOVを位置づけていたというのか。OVの可能性について問われた一倉は以下のように述べる。

自分の趣向に合ったメディアをやっていて面白いのでうまく伸びていってほしいと思いますが、その反面劇場でやってる映画はどうなるんだろうという心配もあります。映画を観に行く客とVシネマを観る客はどこかで大きくだぶっているわけでしょう。Vシネマが映画にどう影響を与えていくか。うまく活性化につながればいいと思いますが、しばらく様子をみないと答えはでないでしょう。(*14)

いくぶん戸惑いながらも冷静な視点を保つ一倉の発言は、賛成意見が氾濫する1990年前後のOVをめぐる言説のなかで異彩を放つ。OVの「功」のみならず「罪」を表立って指摘し、明るいムードにあえて水を差す一倉の言葉は、爆発的OVブームを受けたメーカーの東映ビデオが即座にOV量産体制に入り、実際に人々の目に触れるも増えていった時期でのものであることを鑑みれば、貴重さをいや増す。また、これに近い立場から、東北新社プロデューサーの田辺隆史は「家に帰ってビデオを観て、それが面白いからもう一度客が映画館に帰って来るっていうわけにはストレートに結びつかないと思いますよ」と注意を促す。「オリジナルビデオという蛇口が増えた」という事態そのものは喜んで迎え入れる田辺も、映画館の将来を憂い、OVを無批判に受け入れようとはしない(*15)。
しかし、一倉の発言には目もくれず、東映ビデオをはじめとした各製作会社はOVの輝かしい未来に向かって驀進する。家で手軽に「映画」を見られるようになった今、劇場はどうすればいいのかと、映画館の行く末を案じる意見はOV黎明期こそあったが、桂千穂が新技術による「ヴィデオ・ドラマ」(*16)の船出を祝したように、大方は映画でもテレビでもない第三の映像作品時代の到来を声高に叫んでいたのだ。こうした意見の乖離は、論者が製作現場の人間か否かにかかわる点も見逃せまい。述べたように、OVに一時停止を求めてきたのは一倉治雄や田辺隆史である。あるいは『ヘアピン・サーカス』(1972年)の西村潔の名をここに連ねることも可能だろう。『マドンナの復讐』(1991年)なるOV撮影を間近に控えた西村は、Vシネマという新たに増えた「蛇口」を「ビデオ・レンタルに廻す手持ちの既成の映画が無くなってしまった映画会社の苦肉の策」(*17)に過ぎないと厳しい口調で断じ、とはいえいかなる媒体であろうと仕事には全力を尽くす、といかにも撮影所育ちの監督らしい言葉を補う。さてOV賛成派のメンバーを振り返ると、黒井和男に渡辺亮徳、桂千穂の名がすでに出ており、先取りすれば塩田時敏もここに加わる。彼らの肩書は、順に、雑誌編集長にビデオ会社取締役、脚本家、そして評論家。見事なまでに非゠現場人ではないか。名前を挙げていくと枚挙に暇がないが、OVに全力でのめり込むか、立ち止まってネガティブな意見を持つかの違いは、その人のメインフィールドが製作現場か否かで大まかに分けられる。また、こうした乖離よりさらに重要なのは、OV賛成派の主張の基盤にはプログラム・ピクチャー再来の文字があった点である。

レンタル店で借りるんならVシネマは面白いと思う。日本映画ファンというのはこういうもので育ってきたから。……いわゆるプログラム・ピクチャーのアクションですよね。(*18)

こうつぶやくのは先述の対談での黒井和夫だ。OVをレンタルする映画好きの姿が、従来プログラム・ピクチャーを見てきた観客の姿とそのまま呼応すると訴える黒井は、このあとも自信たっぷりにOVの可能性を語っていくのだが、OVとプログラム・ピクチャーの類似とは何だろうか、そしてそれが黒井を惹きつけるのはなぜか。
そもそもプログラム・ピクチャーとは、定義からして曖昧な用語である。一般には、毎週2本立て興業の番組、すなわちプログラムを埋めるために大量生産された映画群を指すが、たとえば『地獄門』(1953年)の衣笠貞之助をプログラム・ピクチャーの監督と捉えるのは、巨匠と称されるその地位からいって誤りだろう。使い手の解釈如何でプログラム・ピクチャーなる語が意味する射程は際限なく広がってしまうが、要するにプログラム・ピクチャーとは、映画会社主導で製作する、ジャンルやスター、シリーズなど、1本のフィルムを超越した力学に支えられた映画を示すのだ。これを撮りたい、あれを撮りたいといった監督個人の意志が映画作りにほとんど作用しないことはいうまでもない。

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『地獄門』

話を戻そう。何がOVとプログラム・ピクチャーに共通するのか、また、なぜその類似が人に過剰なほど自信を与えたのか。プログラム・ピクチャーの特徴というと、低予算、早撮り、量産体制などが即座に思い出されるだろう。無論、これらをOVが持つ特徴と読み替えても何ら差し支えない。なるほど塩田時敏は、1990年の東映は劇場用映画とレンタル用OVの2本立て興業を行っていると黎明期から唱えていた(*19)。折しもにっかつがロマンポルノ路線を廃していっそうハードコアな道へと舵を切り、ポルノといえども撮影所の風格を備えた性質を捨てつつあった時期である。消えゆく「古き良き」撮影所の性格を何とか現代にも見出そうと、あるいは「撮影所らしさ」を存続させようと試み、上記のように強弁する塩田のような論者が現れたとしても、そうした事情を考慮すれば不思議ではないが、ここで重要なのは、ほかならぬこの「撮影所らしさ」である。なぜなら、渡辺亮徳をしてVシネマは「新しい映画を担う若者」を育成する場だったからだ。以下は、先に引用した黒井の、OVは日本の映画ファンを教育するといった旨の言葉に続けられる。

黒井 そういう映画ファンを掘り起こすというか、生み出すという意味でもVシネマは意義があると思う。映画では出来ないんだからね。……
渡辺 ……そこで、新しい映画を担う若者を育てることが出来れば、結果として明日の映画界に大きな意味があると思う。(*20)

OVによる観客の教育というコンテクストで読むと、「若者」は明らかにレンタルビデオショップのユーザーを意味するが、「若者」の範疇はこれより広い。対談ではさらに、渡辺が今の映画界に足りないのは新人だと嘆くと、黒井は、監督も俳優も枯渇する状況を打破するためにOVで新しい人材を育成する必要があると答える。つまり、OVが教育対象に据えたのは、見る者のみならず作り手でもあったのだ。
OVは、映画ともテレビともつかぬ勢力である一方、撮影所崩壊以後、スタッフの技術継承をうまく図れていなかった80年代から90年代にかけての映画界にとっては、後進育成の良き場としても存在していたといえる。かつて撮影部、照明部、美術部といった具合に各部署が機能的に配置され、それぞれ先輩から後輩への垂直方向の指導が遂行された撮影所は、時が流れスタッフの世代交代が起きても、具体的な知恵じたいがなくなることはなかった。ところが、撮影所システムが滅びると、長年受け継がれてきた技術の教え口が失われ、知恵は霧消してしまったのだ。加えてバブル経済による異業種から映画業界への流入は止められず、たとえば『麻雀放浪記』(1984年)を監督した和田誠はすでにデザイナー、イラストレーターとして名を成しており、製作者の角川春樹も元を辿れば映画とは所縁のない出版社社長である。こうした状況で、映画屋にとってOVは格好の訓練所となった。無論、OVにかかわった者全員が大成したわけではないとはいえ、90年代のアクションOV量産なくして現在の黒沢清や三池崇史があり得ないのも認められよう。近年の作品を概観すると、ゴキブリ型宇宙人との火星での対決だとか日本人俳優による全篇英語の西部劇といった一見奇妙な映画が目立つ三池についても、やくざの抗争が惑星爆発へ繋がったり、極道が『ツイン・ピークス』(1990-91年)を思わせる世界に迷い込んだりするOVを以前から撮っていたのだから、奇天烈趣味も早晩始まったわけではないのだ。その意味で、三池のキャリアは太い実線で結ぶことができる。
また、「新しい映画を担う若者」という言葉から、OVから映画へのステップアップという道のりも伺える。「新しい映画を担う若者」の文字通り、OVが成長させるべき若者はOV監督ではなく新しい映画を担う映画監督であり、映画屋の本懐は映画だといわんばかりに、OVは映画への足掛かりと捉えられている。すでに映画監督としてデビューは果たしており、若者と呼ぶにはいささか薹が立っているかもしれないが、高橋伴明が『ぴゅ~』の翌年、『獅子王たちの夏』(1991年)でおよそ10年ぶりに映画監督に復帰したのはOVから映画へ進む好例といえるだろう。もっとも、例外とはいいがたい量のOVを高橋伴明より上の世代が撮ったのも確かだ。大川俊道は、90年ごろにこぞって東映Vシネマのフィールドで活動した年長世代の動きに当惑する。

Vシネマという路線が始まるって聞いた時に、これを新人監督の登竜門にするって話だったんですよ。……だけど、長谷部(安春)さんとか村川(透)さんとか、僕らが目標とする監督が僕等の土壌に降りてくるでしょ。アレ?となっちゃう。だから、今ちょっと戸惑っていることは確かなんです。……身動きとれなくなってきて、こんなんならやる必要ないじゃないか、そういう戸惑いがあるのは事実なんですね。(*21)

せっかく得た自分たちの仕事を過去に活躍した年長世代に充てられては堪ったものではないというのが正直なところだろう。大川の言葉の端々には苦さが見て取れるが、これを受けインタビュアーの佐伯俊道は「メジャーになればなるほど、組織の論理というものが出てくるから」と相槌を打つ。なるほど未熟な若手より昔馴染みの監督の方が東映は安心して任せられる。しかし、それならばわざわざ「登竜門」と銘打つ必要はなかろう。つまり、OV黎明期には、新たな「蛇口」を得られたもののそれを誰が使うべきか会社や監督でさえ見通せないという問題があったのだ。
では、現在OVはいかに捉えられているか。すでに述べた通り、OVはほとんど無視されており、資料数はごくわずかだ。東映Vシネマ25周年のタイミングを除き、雑誌で特集を組まれたことは黎明期以来ない。況や研究書、論文の類においてをやである。以下、Vシネマ25周年記念の鼎談会を基に、新たなOV評を確かめる。
「撮影所がなくなって日本映画が終わりかねなかったときに、俺はVシネマの現場が“新しい撮影所”として機能していたんだと思う」(*22)。OV評論家の谷岡雅樹は回顧する。これは、東映Vシネマ25周年を記念する鼎談会において『クライムハンター』の監督、大川俊道から、当時のVシネマの魅力は何だったのかという尋ねに対する返答だ。大川以下、鼎談の参加者は「“新しい撮影所”」という言葉に取り立てて反論はしない。このようにOVを疑似的な撮影所と重ねる立場は、かつてVシネマで「新しい映画を担う若者」を育てようとした黒井和男のそれと一致する。しかしここで問題なのは、OVの監督の座をめぐる世代間の混乱がまるでなかったかのように扱われる点だ。こうした混乱はプログラム・ピクチャー最盛期のようにもう一度花開くことができると騒がれた裏で起こっていたがゆえに、乖離を示す重要な出来事となるが、不思議なことに25年が経つとすっかり忘却の彼方に追いやられている。黎明期は上からの掬い上げに悩まされていた大川もこの鼎談会に同席しているにもかかわらずそうした意見は発信しない。谷岡も、別の場所で、当時増えた監督について「同時多発的」(*23)とコメントを添えるばかりだ。鼎談はVシネマ25周年を祝う記念作『25 NIJYU-GO』(鹿島勤、2014年)に軽く触れ、終わる。

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『25 NIJYU-GO』

以上、OVにかんする言説を振り返ってきた。そのなかには、少数ではあるものの、黎明期のOVをめぐっては否定的な意見もあった。映画館の経営が立ち直るとは限らない、たかが急拵えの媒体に過ぎない、監督を務めたいのにできない。これらが訴える問題はいずれも映画産業の在り方そのものに直結するクリティカルなものである。にもかかわらず、過去においても現在においても、そのような声が拾われにくい。OVは、再来したプログラム・ピクチャーとして崩壊後もなお撮影所に生きようと願う者から祝福される。経済的にも制度的にも再起不能に陥った撮影所を、それでも立たせようとする勢いが彼らにはある。現在の視点から冷静に振り返ると、OVの製作体制は、1作ごとに製作委員が離合集散するワークショップのような方法を採ることを拒み、亡霊に憑かれ、撮影所の鬼火を引きずる形だったといえるだろう。
ようやくOV像が浮かんでくる。OVは、自らの内側に諸問題を抱えながらも撮影所の名残としての側面を褒められ、レンタルビデオショップを基軸に発展し、流通面での打撃を主な理由に衰退した。繰り返すが、誕生して間もないころのOVへの祝言はプログラム・ピクチャーに言及するものが多かった。もう一度やり直せる。栄華を知る人々の口からはそうした声が異口同音に聞こえてくるが、ここでわれわれは、映画ともテレビとも異なるとはいいながら多分に映画を夢見たOVが稀に劇場公開されたことは、果たして本当に例外だったのだろうかと疑わねばならない。なぜなら、OVから映画へのステップアップが標榜されたのなら、そのような事態はむしろ「本懐」と捉えるのが妥当だからである。さらに想起すべきは、OVとテレビの明らかな連続だ。一倉治雄のように、テレビドラマの演出家として研鑽を積んだ者が今度は監督と肩書を改めOVを手掛けることはままあった。それどころか、OVはしばしば企画段階からテレビドラマが参考にされていたのだ。東映Vシネマ第1弾の『クライムハンター』でさえ、元々は『ベイシティ刑事』(1987-88年)なるテレビドラマが製作陣の念頭に置かれていたという(*24)。なるほどOVは映画でもテレビでもない。だがしかし、OVは映画でもテレビでもあったのだ。
さて、長い迂回を経て、『勝手にしやがれ!!』シリーズを考察する算段が整った。第2部では、従来顧みられる機会に恵まれていなかったこの一連の作品群が、OVにおいていかなる位置を占めるのか、様々な角度から検討する。

*13 同上、40頁。
*14 同上、47頁。
*15 田辺隆史、濱渡剛「企画勝負――中身以外の広がり」、『映画芸術』1991年冬号、168頁。
*16 桂千穂「若者よ、Vドラマをめざせ」、『シナリオ』1990年10月号、12-13頁。
*17 西村潔「Vシネマについて」、『映画芸術』1990年10月号、160頁。
*18 『キネマ旬報』1989年3月下旬号、37頁。
*19 塩田時敏「東映Vシネマとビデオ・オリジナルのゆくえ」、『シナリオ』1990年10月号、11頁。映画とOVの2本立て興業とはいえ、1990年前後の東映製作の劇場用映画は、『ドラゴンボールZ 地球まるごと超決戦』(西尾大介、1990年)など、ほとんどがアニメーションであった。映画屋の意地がここに見られたとは到底言えまい。
*20 『キネマ旬報』1989年3月下旬号、37頁。
*21 一倉治雄、大川俊道、佐伯俊道ほか「ビデオ専用映画を製作してみよう」、『映画芸術』1990年10月号、152頁。
*22  柏原寛司、大川俊道、谷岡雅樹ほか「シナリオライターにとってVシネマとは何だったのか」、『シナリオ』2014年11月号、16頁。
*23 谷岡雅樹「哀川翔と狂乱・動乱・月影・奈落のアンダーグラウンド」、『キネマ旬報』2014年11月上旬号、49頁。
*24  柏原、大川、谷岡ほか、前掲書、7頁。

第2部 勝手にしやがれ!!逸脱計画

第1章 物語について

『勝手にしやがれ!!』シリーズが『CURE』よりも、『復讐 運命の訪問者』(1996年)と『復讐 消えない傷痕』(1996年)からなる『復讐』シリーズよりも以前に撮られている事実を見逃してはなるまい。能う限り即物的に死を表象することで高度な倫理性をもって連続猟奇殺人事件を扱い、ただの凄惨なスプラッターとなることを回避した『CURE』や、前者では敵と戦うために主人公が刑事の職を辞し、後者ではその後の主人公が法律の外にいる者との対峙の仕方について言及するという、『ダーティハリー』(ドン・シーゲル、1971年)、『ダーティハリー2』(テッド・ポスト、1973年)を意識的に踏襲した『復讐』シリーズの直前に、黒沢は『勝手にしやがれ!!』シリーズにおいて天衣無縫な、しかし明晰極まりないはたらきを見せていたのだ。『CURE』が世を震撼させた理由のひとつに『勝手にしやがれ!!』シリーズとのギャップを挙げることもできよう。あるいは近年、『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(2013年)や『Seventh Code』(2013年)など、活劇性を前面に押し出した作品の源流をここに見ることも可能だ。このように黒沢理解を左右する位置にいる『勝手にしやがれ!!』シリーズだが、ソフト販売元倒産によるアクセスの厄介さからか、主眼として論じられることは極端に少なく、その重要性とは反対に軽視されているといえる。『蟲たちの家』(2005年)までのフィルモグラフィーを振り返りながら自伝的要素、演出意図、撮影秘話なども盛り込まれた『黒沢清の映画術』でさえ、『勝手にしやがれ!!』シリーズをあくまで黒沢が90年代に監督したOV作品のとして扱うだけで、個々の作品についてはなおのこと言及されぬまま、話題は『CURE』 へと移る。無論『CURE』は黒沢にとって大きなターニングポイントとなったが、だからといってそれ以前の作品を切り捨てるのは筋違いであろう。そして、『勝手にしやがれ!!』シリーズに触れる際、例外なく人はみな、まるでプログラム・ピクチャーのようだ、と言葉を添える。

 ――Vシネマは「やくざ物」などの縛りの中で、実は、プログラムピクチャーの最後のパラダイスとして不思議な形で開花していたのではないでしょうか。しかし、それも長続きはせず、黒沢さんのような異分野の人が入ってきて、お約束の中で勝手な映画を撮るという環境は失われてしまったのかもしれません。
確かに、Vシネマの現在は僕が撮っていた頃の状況とは全然違います。当時は深く考えていませんでしたが、プログラムピクチャー的に撮れたのも偶然でしょう。(*25)

インタビュアーの安井豊、大寺眞輔から出た「プログラムピクチャー」なる鍵言葉を引き継ぎ、いきおい黒沢は「僕にとって『勝手にしやがれ!!』シリーズは、これぞプログラムピクチャーだと思って撮っていたもの」だとさえ述懐するだろう。量産が要請されたため、低予算かつ早撮りという状況で撮り上げねばならないプログラム・ピクチャーと、『勝手にしやがれ!!』シリーズを重ね合わせる向きに異論を唱える者はいまい。すでに見たとおり、渡辺亮徳はプログラム・ピクチャーを念頭に置きながらOVを製作し、谷岡雅樹はそのように作られるOVの製作現場を「“新しい撮影所”」と表していた。つまり黒沢は、『勝手にしやがれ!!』シリーズを撮ることを通じて、すでに過去のものとなったプログラム・ピクチャーの片鱗を知ることができたといえる。だがそれにしても、黒沢なりのプログラム・ピクチャーとは一体何だったのだろうか。以下ではこの問題を、『勝手にしやがれ!!』シリーズの物語、製作環境、作家の3つの観点から確かめる。

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『勝手にしやがれ!! 強奪計画』

6本すべてに「計画」と冠された『勝手にしやがれ!!』シリーズの物語は、しかしながら、あるいはそれゆえに、似たり寄ったりである。便利屋の藤田雄次(哀川翔)と吉行耕作(前田耕陽)が、事務所の鈴木栄(大杉漣)と羽田由美子(洞口依子)から割り当てられた小さな依頼を解決していくうちに予期せぬ大きなトラブルに巻き込まれていき、本来の目標とは異なる課題を解決するうちにいつの間にか当初の問題も片付き、大団円を迎える。つまるところ、これだけだ。本シリーズは製作会社のケイエスエスから「『傷だらけの天使』のようなものをシリーズ物でやりたい」(*26)と要請されたという点でOVとテレビを線で結び、おおむねコメディに分類できる所以をなす。また例外的に最終作を除くものの、いずれの「計画」も同工異曲に過ぎず、黒沢は同じ要素を用いながら反復を行う。ハワード・ホークスの諸作を思い起こさせる緩やかな重なり合いを持つ『勝手にしやがれ!!』シリーズは、それと同時にOVやジャンルについて回る見る者の期待を逆手に取ることでもコメディとして成立しているのだ。では、6作を順に追っていこう。
便利屋と呼ぶよりチンピラと称したほうが正しかろう雄次と耕作は、主に借金取りとして依頼に応え生計を立てている。ある日雄次は、やくざに殴られたところを介抱してもらった幼稚園の保母、涼子に一目惚れしてしまう。片や耕作はキャバクラのホステス、キャンディちゃんと結婚を考えているが、実はこのホステスとは、借金返済にあえぐ保母の夜の顔であった。2人は直ちに返済劇に巻き込まれていく。借金の原因である彼女の父親の腎臓悪化を招いた元医師松浦とも偶然出会った雄次らは、3000万円の治療費を稼ごうと決心する。とはいえこつこつ稼いだ金も博打でする始末だ。一発大きな商売をするしかないと運び屋の仕事に就いた涼子だったが、ブツが5000万円相当の覚醒剤だと知り、出来心で持ち出してしまう。当然のように目論見は露見する。松浦がやくざの近藤に捕らえられ、涼子も危険な目に遭う。雄次と耕作は改めて受け渡しを試みるも、雄次の手から滑り落ちた1包の覚醒剤は穴に落ち行方不明となる。近藤は涼子と松浦を人質に取り、雄次と耕作に代わりの覚醒剤を探すように命じる。そのためには今度陸揚げされる別の覚醒剤を奪う必要があるのだが、その受け渡し人が先生であることが判明すると、2人は空き箱で偽装して難を逃れようとする。無論偽装は近藤に知られ、人質交換の際に涼子は怪我を負うものの、これまで「貧乏神」と罵られてきた松浦が元医師として彼女を治療する。やがて、近藤が「もう疲れた」と出頭した新聞記事が画面に大写しになると、これからはアメリカで暮らすことに決めたと告げる涼子と松浦からの絵葉書が、先生によって読まれる。このときまでその存在を明かされることのなかった、アメリカ在住の涼子の叔父がパイナップル農園で儲けたのだという。恋破れた雄次は絵葉書を破り捨て、耕作はキャバクラへの執着を口にしたまま、彼らはまた当て所なく歩き出す。
シリーズ第1作である『強奪計画』は、石岡良治が指摘するとおり「以後の作品で積極的に「使い回される」ことになる構造のほとんどが出現している」(*27)。主人公は無垢なヒロインと出会い、彼女からの頼みで課題Aが設定されるが、事態が悪化するにつれ、課題AからB、Cへと関心事は段階的に横滑りしていく。同時に課題Aが孕んでいた緊張は緩み、作品はコメディとしての濃度を高め、果ては機械仕掛けの神の登場によって唐突に最終的な解決がなされてしまう。今は最終作『英雄計画』がもたらす不安がこの規律の破壊に起因する点だけを指摘し、『脱出計画』へと先を急ごう。

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『勝手にしやがれ!! 脱出計画』

神崎組組長から娘アスカの尾行を頼まれた雄次と耕作は、ボーイフレンドである木村の存在について報告すると、そいつを連れて来いと新たな依頼を受ける。高圧的な神崎に苛立ちながらも報酬200万円になびく2人だったが、どうやら木村はアスカから一方的に好かれているだけで、反対にアスカの妹の陽子のことが好きらしい。伯父が住むオーストラリアに逃げようという木村を、雄次と耕作は渡航に賛同しつつも金欲しさに神崎へ売り渡す。罪悪感に見舞われる2人は神崎組から逃げてきた木村を匿い、陽子を連れてくることで罪滅ぼしを図る。ところが陽子は雄次に一目惚れしてしまう。「シャッセ・クロワゼ構造として要約できる」(*28)アスカ、木村、陽子、雄次のすれ違い。これを保持したまま耕作を含む5人は渡豪を決める。道中、メンバーは彼らを追及していたはずの神崎組組員まで巻き込んだ6人に膨れる。だが追っ手はしつこい。6人を乗せた船が出航するまさにそのとき、追っ手が組員を撃つ。雄次と耕作が追っ手とやり合う間に木村と神崎姉妹は逃げ出し、出遅れた雄次と耕作はオーストラリア行きを諦めていないとつぶやく。
そしてこのあと、日が沈むなか画面右方向へ滑空する飛行機が逆光気味の超ロング・ショットで捉えられるというラスト・ショットを『脱出計画』が『強奪計画』と共有することが明らかになる。それどころか両者はファースト・シークェンスさえもほとんど分かち合う。以下、約50秒の長回しから始まる、『強奪計画』のファースト・シークェンスを分析する。
ショット1 三叉路の分岐点に位置する家をややロング・ショットで捉える。傍らには大樹があり、2階部分はフレームで切れている。キャメラは水平かつ固定で家を画面中央に収める。「哀川翔」、「前田耕陽」のクレジット。静寂を突くようにベルが鳴ると、軽快な管弦楽曲が続く。画面右手の道路奥から自転車に乗った人物が現れる。「雄さーん」と叫ぶサングラスをかけた男は、中央の家に着くと勢いそのままに自転車を乗り捨て、玄関をくぐる。タイトル。男に引っ張られ、ハンチング帽を身に着けたもうひとりの男がせかせかと外に出てきた。牛乳なんか飲んでる場合じゃないでしょなどと急かされたハンチング帽の男は、自分の自転車に飛び乗る。サングラスの男もそのあとを追う。彼らが画面手前に向って走り出すと、キャメラは後退移動を始める。
ショット2 画面右に向かって川原の土手をハンチング帽の男を先頭に縦走する2人の短いロング・ショット。前景には植木、後景には橋。
ショット3 自転車に乗ったまま階段を降りる2人を数十段下から正面に見上げるロング・ショット。サングラスの男は「階段だー」と大声を出す。
ショット4 向かって左斜め前からハンチング帽の男のミディアム・クロースアップ。煙草をくわえている。
ショット5 ショット4と同じアングル、サイズのサングラスの男。
ショット6 ショット3と同じ。2人は階段をほとんど降りたことが分かるごく短いショット。
ショット7 ショット6の切り返しショット。階段を降り、道なりに商店街へ進む2人の背中を俯瞰気味のキャメラがロング・ショットで捉える。キャメラはそのまま2人を追うようにティルト・アップし、商店街の門がフレーム・インすると静止。「監督/黒沢清」。
果たして急いだ先に何があるのか、オープニング・シークェンスが終わっても明示されはしないのだが、ファースト・ショットにおける、断りもなしに家に上がり込み、かつそれを構わないという男2人の親密さと、自転車を走らせるのを機にそれまでフィックスだったキャメラが一気に動き出す躍動感は明らかである。映画が進むと、ハンチング帽の男、雄次とサングラスの男、耕作は実際に抜群のコンビネーションを見せるだろう。本シリーズの第1作と第2作、第3作と第4作、第5作と第6作はセットとして作られており、企画段階から2本同時製作が前提となっている。それゆえ『強奪計画』と『脱出計画』は始まりを一にし、シリーズ感を高めるわけだが、それぞれ似たようなファースト・シークェンスも厳密には異なるテイクを使用しているらしい。たとえば先に見た『強奪計画』ファースト・ショットにおいて雄次の自転車の位置は両者で異なるし、『脱出計画』ショット4の雄次は煙草を吸っていないのだ。とはいえ、2本で1ユニットという仕組みは『黄金計画』と『逆転計画』、『成金計画』と『英雄計画』といった具合に継がれるが、これは予算の少なさが要請するものであり、以後2本を3か月程度で仕上げる持久力が黒沢には必要となった。

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『勝手にしやがれ!! 黄金計画』(写真右は天本英世!)

3作目の『黄金計画』で現れる機械仕掛けの神はこれまでに比べ責任感がいっそう薄い。雄次と耕作はひょんなことから波多野老人の遺品である故障したワーゲン車を引き取ると、孫娘の律子が突如現れ、強引に雄次の家に転がり込む。『赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス、1938年)のキャサリン・ヘップバーンの如く自由な彼女は勝手に車を運転し、勝手に家財道具を売るが、雄次と耕作はその都度ケーリー・グラントのように翻弄されるしかない。実は律子の目的は祖父から受け取った宝の地図を基に財宝を探し、その金でジャマイカに行くことだった。やがてその地図を狙う祖父の銀行強盗仲間や悪徳刑事と、三つ巴の逃走劇が始まる。距離も時間も対象との間隔も隠蔽され、脱臼したチェイスの果てに律子は宝を見つける。しかしそれは大金などではなく祖父が遺した孫娘との思い出の品であった。改心した律子は地道に働く道を選び、雄次と耕作は彼女の門出を祝う。
スクリューボール・コメディの色合いが強い『黄金計画』は、刑事の大鷹明良が『ヒズ・ガール・フライデー』(ハワード・ホークス、1940年)の殺人事件の容疑者よろしく乳児用ベッドの底に閉じ込められるのだから、内容から見てもシリーズ史上最もホークスに接近した作品だといえるだろう。また、今作も含め『勝手にしやがれ!!』シリーズでは登場人物がしきりに国外へ行くことを夢見る。渡航が叶うと叶わざるとにかかわらず、一攫千金やら内患回避やらのために彼らは彼の地を志す。そして、きっと今よりいいに違いないと「向こう側」を妄想する楽天的な態度は許されないと彼らが知るには『大いなる幻影』(1998年)まで待たなければならない。
続く第4作『逆転計画』では、運が鍵を握る。近頃ツイていない雄次と対照的に、耕作はツキまくっている。珍しく雄次が福引で1等ウォークマンを当てたとしても耕作は特等ハワイ旅行券を当てるほどだ。雄次の恋心によりウォークマンはタバコ屋のサツキの手に渡るが、やくざの黒川から雄次が盗んだ1000万円はサツキの父に再度盗まれてしまう。直後に博打好きな父娘は大金を失い、黒川と金を取引するはずだった銀星会から目をつけられた父は身柄を拘束される。耕作が競馬で当てた1000万円を手に、3人は引き渡しへ赴く。足を撃たれる父。そこに黒川が現れ、銀星会を倒して告げる。「すべては俺がやったことだ、忘れろ」。結局耕作は旅行券を父娘に譲ったが、噂では現地のレースで大勝ちし、帰国しないという。雄次はまたも失恋してしまう。
とりわけ『強奪計画』と似た物語構造を持つ『逆転計画』は、しかし運の導入により荒唐無稽なプロットに論理的整合性を付与される。論理的整合性とは映るものすべてが映画に貢献するような事態を指しての言葉ではなく、一見無茶苦茶に見える筋の有機的な結びつきのことである。かような的確さがあるからこそ人は笑うことができるのだ。勝手にしやがれ、と。本作を最後に、第3ユニットでは恋愛抜きで物語が動く。

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『勝手にしやがれ!! 成金計画』

第5作『成金計画』はOLの美奈子が通りすがりのやくざからヘロインを託されることから始まる。美奈子は車でゴミ捨て場に突っ込んでいたところを雄次と耕作に保護されるが、例の如く売人ややくざから追われるようになってしまう。徐々に美奈子が隠し持っているヘロインが明るみに出ていき、10包、100包と、遂には8億円相当の薬物が雄次らの頭を悩ます。美奈子は恋人の岡山と結婚しバリ島に移住するという夢のためにほとんどのヘロインを海に投棄するが、海水の逆流現象でヘロインが手元に戻ってくる。売人もやくざも執拗な追及をやめない。争ううちに敵は倒れ、雄次らは平安を取り戻す。
敵役の突飛なキャラクター、エスカレートするヘロインの総額など、『成金計画』は遊びの余白が多く見られる一方で、空虚な時間も訪れる。逃走劇が終わり湖畔にたたずむ雄次、耕作、美奈子、岡山ら4人らのショットと、海外に行くらしい雄次と耕作を収めたラスト・ショットは漠たる寂寥感を見る者に覚えさせる。便利屋がついに海を渡ることができたからか、もはや彼らにすべきことの残されていない最終作は『勝手にしやがれ!!』シリーズに親しんできた者ほど驚くべき冷ややかな雰囲気を帯びる。

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『勝手にしやがれ!! 英雄計画』

「何のために君はそれをなすのか」、開巻早々雑誌の特集タイトルに雄次が感銘を受ける『英雄計画』は正義を軸に展開していく。雄次と耕作は、正義の名の下にやくざ追放を標榜する青柳と知り合う。やくざ風の男、雨宮を追い出すことに執心するあまり、別に何も悪いことはしていないのだからと嫌がる町内会の人々さえ「敵」だと見做すこのファシストに妹の玲子は呆れていた。勢いを削がれる青柳だったが、ある日足を撃たれたことで雨宮に疑いの目が向く。雨宮はやがて町を立ち退き、間を取り持った雄次は英雄扱いされ、青柳は代議士の秘書見習いになり町を出る。しかし青柳には秘密があった。事もあろうに、足の怪我は自作自演だったのだ。雄次と耕作、玲子に嘘がばれた青柳は陰で件の事件の犯人は雄次だと警察に通報し、待ちわびる耕作をよそに雄次は姿をくらます。耕作がシリーズ初のナレーションで雄次が行方知れずになったことを明かすと、「1年後」、とここでまたしてもシリーズ初の中間字幕が挿入される。家は取り壊され、「浄化」が進行した町は殺伐とした雰囲気に変わってしまった。そして何より耕作が、呑気に雄さーんと辺り構わず大声を張り上げていた耕作が、すべてを諦めたかのような物静かな風貌になってしまう。町では、地域を浄化しようと青柳が推進するホームレス排斥運動と、それに抗する保護派のシュプレヒコールが繰り広げられている。やがて家なき者、雨宮と雄次が帰還する。小川伸介による三里塚についての一連の作品群を想起させる「強制代執行」のインター・タイトルを挟み、町内会館も壊される。業を煮やした雄次たちは青柳を拉致するが、反対に警察に包囲されてしまう。発煙筒の煙が充満するなか、雄次と耕作はロシアへ渡る夢を語り、煙幕に消える。便利屋の間仕切り暖簾を風が揺らす。由美子が目を覚まし、風の吹く方へ目を遣る。彼女がそこに何を見たのか、われわれは知る由もない。
『英雄計画』は過去5作とは明らかにムードが異なる。確かにこの最終作にはギャグもアクションも見られるし、むしろ過去5作のなかにも本筋とは無関係な、不安を煽る演出、ショットが断片的に入り込んでいたともいえる。だが、『勝手にしやがれ!!』シリーズがこれほど苦いエンディングを迎えたことがあっただろうか。雄次と耕作は生死さえ判別不明なのだ。必ずやくざを出すこと、シリーズものだから主人公2人を殺さないことなど、物語上の制約が決して少なくない本シリーズを作り続けてきたことにうんざりしてきたという黒沢は、「最後に元の世界に戻れなくなる形で終わりに」しようと考え、『英雄計画』を仕上げる。
ここまで見てきたように、『勝手にしやがれ!!』シリーズは、最終作以外のほとんどすべての作品が同様の物語構造を有し、個別の作品というよりむしろ混然一体となったヌエ的イメージを見る者にもたらす。そして、アクションものOV、やくざものOVに一般にかけられる期待を裏切るように『勝手にしやがれ!!』シリーズは進む。たとえばそこには兄貴分を殺された男が義憤に駆られ単身敵地に乗り込むこともなければ、筋を通すために身代わりに収監されることもない。『クライムハンター』は刑事による同僚の弔い合戦であったし、『ぴゅ~』も喜劇調とはいえ最終的に主人公は鉄砲玉になる覚悟を決めたが、『勝手にしやがれ!!』シリーズに対して、このような道理や任侠といった言葉は似つかわしくなかろう。恐怖の念を見る者に一切抱かせないやくざが頻出する『勝手にしやがれ!!』シリーズに当てはまるのは、むしろ、逸脱の文字である。実際、『クライムハンター』などをはじめ、OV黎明期に重用されていた弾数重視の銃撃戦は『勝手にしやがれ!!』シリーズでは鳴りを潜めているのだ。
それでは、黒沢はいったいどのような経緯でこうした連続作品を手掛けるに至ったのか。次章ではこの点を確認する。

*25 黒沢清『黒沢清の映画術』、新潮社、2006年、153-154頁。
*26 黒沢、前掲書、154頁。
*27 『黒沢清論集』、96頁。
*28 木下千花「占有者たちの空間」、『ユリイカ』2003年7月号、青土社、2003年、196頁。


第2章 製作環境と作家について

本章では、『勝手にしやがれ!!』シリーズを監督した黒沢がいかなる歩みをたどってきたのかを、本シリーズの製作環境と、黒沢が世に出た経緯を確かめることで明らかにする。
まず、製作環境はどのようにあったか。黒沢は90年ごろを「不遇だな、と思っていました」と半ば苦笑しながら回想しているが(*29)、『勝手にしやがれ!!』シリーズが作られるに至った経緯をたどるために、「不遇の時代」の前後を確認する(*30)。
高校生のころから8ミリフィルムで自主映画を撮っていた黒沢は、『神田川淫乱戦争』(1983年)で商業映画デビューを飾る。川を挟んだ「あちら」の青年と「こちら」の少女たちが織り成す境界線をめぐる語り口は、『叫』(2005年)を撮り終えた今なお息づいているといえる。男女の絡みさえあればあとは好きに撮っていいというピンク映画の体裁を守りながら隙あらばジャンプ・カットを差し込みゴダールへの傾倒を隠そうとしない黒沢は、続く第2作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985年)でも『パッション』(1982年)の監督への愛を噴出させるだろう。しかし本論に関係のある限りで『ドレミファ娘』が重要なのは、そうした黒沢と映画史の戯れではなく、黒沢清と伊丹十三の出会ったことにある。すでに60年代から俳優としてのキャリアは積んでいたものの、『家族ゲーム』(森田芳光、1983年)や『細雪』(市川崑、1983年)で名傍役へ変わりつつあったこのエッセイストは、自らが心酔する蓮實重彦の教え子、黒沢清からの出演オファーを快諾する。元々『女子大生・はずかしゼミナール』という名でにっかつロマンポルノの企画のひとつとして撮られていた本作は、黒沢の自由過ぎる作り方が災いしてか、会社の怒りを買い公開中止の目に遭う。追加撮影、再編集、改題を経てようやく『はずかしゼミナール』もとい『ドレミファ娘』は日の目を見ることになるが、公開中止の際には伊丹は黒沢と一緒になってにっかつ側へ怒りを露にしていたというのだから、両者の関係はまず良好だったといえるだろう。そして気の合う仲間は当然のように再び組む。しかし、今度はお互い「監督」として。

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『スウィートホーム』

5人組のテレビクルーが人里離れた古城に到着する。城主のフレスコ画家、間宮一郎はその家族も含めとうに亡くなっている。壁面の巨大フレスコ画にかんする取材はすぐに終わるはずだったが、不気味な怪異現象の数々によりカメラマンの田口とレポーターのアスカが命を落とす。一行を襲うのは、間宮夫人の悪霊だ。その事実を山村老人(伊丹十三)から告げられたディレクター早川(宮本信子)、プロデューサー星野(山城新伍)、その娘エミ(NOKKO)は霊と戦うことを決意する。結果彼らは霊に勝利し、崩れ落ちる城を背に帰路についたのだった。
まるでRPGのような物語で展開される『スウィートホーム』(1988年)は、後にゲーム化され『バイオハザード』の下敷きにもなるのだが、映画『スウィートホーム』の歩む道のりはそう順調ではない。きっかけは男たちの双頭体制だった。資金難にあえぎ、一時は企画そのものが頓挫した『スウィートホーム』は、黒沢が経済的援助を伊丹に頼んだことで製作実現へと進む。ただ伊丹の要求も厳しく、関係者は伊丹のよく知る顔が占めるようになり、製作総指揮に伊丹、監督に黒沢をいただく形で始動したが、日が経つにつれ両者の映画的感性の差が明白になってくる。たとえば伊丹は寄りの画を好むが黒沢は引きの画を好む。あるいは伊丹が説明的なカットを入れるのに対して黒沢はそのようなカットは不要だと主張する。両者が互いに「監督」として組んだと述べたのはまさにここにおいてである。竜虎どちらに従うべきかと撮影現場は混乱したらしいが、とはいえ黒沢は伊丹に従うよりほかなく、世には伊丹が監督を務めたと誤解されることもしばしばあった『スウィートホーム』の仕上がりに黒沢が納得するはずがなかった。だが、事態はさらに混乱していく。ビデオソフト発売にともなって監督の黒沢に追加報酬の合意がなされたか、ビデオ化、テレビ放映の際の編集は監督の著作者人格権を侵害するかなどをめぐり、黒沢が伊丹を提訴したのだ。結果は黒沢の全面敗訴に終わり、その後数年間、黒沢は映画と縁遠くなる。
こうして、干されるように映画界を追われた黒沢の「不遇の時代」が始まる。『ドレミファ娘』での失敗を乗り越えたといえど、『スウィートホーム』が黒沢に味わわせた苦味は比べ物になるまい。聞き分けの悪い個人の嗜好はメジャーの力学の前では潰れるのだ。自主から商業へ成長途中だった黒沢はテレビやOVへの「都落ち」を余儀なくされる。
だが、逃れ逃れた先に待っていたのは意外にも光明だった。その人こそ、後に『勝手にしやがれ!!』シリーズのプロデューサーを務める下田淳行である(*31)。下田が黒沢清の名を知るのは学生時代のことだ。黒沢の自主映画『しがらみ学園』(1980年)や『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を見た下田は、いつかこの監督と仕事がしたいと考え始める。時は流れ、映画のプロデュースはまだ難しいがOVのプロデュースなら可能だという年齢に差し掛かった下田は、ここで宿願を達成する。『ヤクザタクシー 893TAXI』(1994年)や『打鐘 男たちの激情』(1994年)がそのひとつだ。前者は倒産寸前のタクシー会社から手形を取り戻すためにヤクザがタクシー運転手に扮して奮闘するコメディ、後者は競輪選手を主人公に据えたいわゆるスポ根ものである。これらが好評を博し、シリーズものの企画が立ち上がったとき、下田はふと考える。哀川翔主演のやくざものを黒沢清に監督させてはどうか、と。かつて制作部の下っ端だった時期に『ぴゅ~』で哀川翔という手札を引いていた下田は、OVプロデューサーに成長したこのタイミングで哀川を召喚するのである。この結果、男の探偵2人組をコミカルに描いたテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)を下敷きに生まれた『勝手にしやがれ!!』シリーズがいかなるものだったかはすでに見てきたとおりだ。ちなみに、黒沢が『勝手にしやがれ!!』シリーズを監督したのは、同じくこのテレビドラマを根に持ち、豊川悦司、真木蔵人がバディを演じた『傷だらけの天使』(1997年)、『愚か者 傷だらけの天使』(1998年)を阪本順治が手掛ける直前の出来事である。そして、『復讐 運命の訪問者』、『復讐 消えない傷痕』、『蛇の道』(1997年)、『蜘蛛の瞳』(1997年)と、黒沢がOV量産期に入るまでに時間はかからなかった。荒戸源次郎なる年下のプロデューサーなくして『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)以降の鈴木清順が考えられないように、下田淳行なくして90年代の黒沢清はあり得ないのだ。
黒沢清が他のOV監督らと一線を画すのもまさにここにおいてである。黒沢は一貫して映画を志してきた人物であり、テレビやOVをあくまで副次的なものと捉えていたが、『スウィートホーム』裁判を機に「呪われた映画監督」としてそれらを手掛けていくようになる。たとえばそれじたいテレビシリーズの「劇場版」に過ぎない『またまたあぶない刑事』(1988年)で映画監督デビューする一倉治雄のような、テレビシリーズの延長線上にある映画を撮る監督とは根本的かつ決定的に出自が異なるのだ。だが、テレビ屋とは異なる黒沢の出自とは何だろうか。ここからは、黒沢清という映画作家が生まれるまでの流れを見る。
黒沢は『白い肌に狂う牙』(1977年)などで自主映画界を賑わせたあと、二人の映画監督の助監督についている。『太陽を盗んだ男』(1979年)の長谷川和彦と『セーラー服と機関銃』(1981年)の相米慎二だ。きっかけは長谷川が『白い肌に狂う牙』を高く買ったことだった。助監督にならないかと誘われた黒沢は『太陽を盗んだ男』の現場に参加し、そのときのチーフ助監督である相米の現場へも行く。この関係からのちに長谷川を中心にディレクターズ・カンパニーが設立される際、当時は『しがらみ学園』しか代表作のなかった黒沢も、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸らの仲間入りを果たす。昨日まで一端の学生だった人物が自主製作の映画をきっかけに商業の世界に足を踏み入れることなど、撮影所システムが健在だったころには考えられなかっただろう。
いみじくも黒沢と同時期に、自主映画から商業映画への進出者が何人か現れてくる。50年代から撮影所の外で自主映画を作っていた大林宜彦は『HOUSE』(1977年)で、『高校大パニック』(1976年)の石井聰亙は日活製作の同作のセルフリメイクで、『暗くなるまで待てない!』(1975年)の大森一樹は『オレンジロード急行』(1978年)で、そして『ライブイン・茅ヶ崎』(1978年)の森田芳光は『の・ようなもの』(1981年)で劇場公開作品を監督する。このように、撮影所システムの崩壊以後、撮影所にコネクションがない人物は、自主映画を製作し、大森や森田のようにPFFなどのコンテストで名を上げてからでないと商業映画界での活動は難しかったといえるだろう。人材育成の場でもあった撮影所システムが崩壊すると、自主映画を製作していることが商業映画の世界への通行許可証のような役割を果たしたのである。こうした状況で黒沢が特異なのは、自主映画監督と商業映画監督の間に商業映画の助監督を経験している点だ。黒沢はこの経験について良くも悪くも語り(*32)、またその語りじたいも仮借ない批判に晒されている(*33)。
以上、『勝手にしやがれ!!』シリーズを物語、製作環境、作家の面から探ってきた。ひとまずコメディに分類可能なその物語は、ほとんどどれも同じような構造で、既存のOVの体系からかけ離れたものであった。言い換えれば、やくざの仁義について云々するような他のやくざものOVとは異なり、『勝手にしやがれ!!』シリーズは、それらに付いて回る期待を逆手に取ったコメディなのだ。また。製作環境を振り返ると黒沢がいかに他のOV監督と差異化できるか明らかになった。『スウィートホーム』を境に商業の道から逸れた、「呪われた映画作家」黒沢は、テレビ出身者の目立つOVへと「都落ち」のかたちでやってきたのだ。さらに作家としても、撮影所という徒弟制度がなくなった70年代末に、自主映画製作という伝手を活かし商業映画界へ進んでいったことが確認された。黒沢なりのプログラム・ピクチャー、その言葉の意味するところは、このようなものだったのだ。

*29 黒沢、前掲書、136頁。
*30  以下の自伝的な内容については特に注のない限り『黒沢清の映画術』を参照した。
*31 以下、下田淳行にかんする内容については次を参照した。下田淳行、梅本洋一「最高の成功報酬は「次もやろう」ということです」、『ユリイカ』2003年7月号、青土社、2003年、143-148頁。
*32 黒沢はこと相米について手厳しく批判するが、それについては以下を参照した。黒沢清、篠崎誠「純粋に映画的であろうとした人」、木村建哉、中村秀之、藤井仁子編著『甦る相米慎二』、インスクリプト、2011年、343-362頁。
*33 浅野正道「主語のない強度について――相米慎二の現代性」、『層』1号、ゆまに書房、2007年、116-144頁。

結論

OVにかんする歴史、言説をめぐり、黒沢清『勝手にしやがれ!!』シリーズがいかなるOVだったのか振り返ってきた。『クライムハンター 怒りの銃弾』で開幕したOVは、成人男性を中心にヒットし、瞬く間に一大ブームを築く。その背後には昭和天皇崩御による「自粛」ムードの情勢があったとされ、年号が変わる前後にOVは隆盛を極める。わけてもVシネマというオリジナルレーベルを定着させた東映ビデオは、映画会社である東映とのつながりから、撮影所時代のプロフェッショナルを招いたり、流通面でも堅い基盤を持っていたりするなど、他の追随を許さなかった。しかし、発展し続けるかに見えたOVも潰える。サブスクリプションサービスや衛星放送の普及が原因で、OVの流通するほとんど唯一の場であるレンタルビデオショップそのものが消滅してしまったのだ。このような悲劇的な経緯とは裏腹に、誕生当初のOVは非常に褒めそやされていた。というのも、OV賛成派の旧世代にとって、OVはプログラム・ピクチャーと重なったからである。映画産業華やかなりしころの勢いを取り戻すことができると彼らは主張したが、それに比べ、現場レベルで動く新世代はOVに対していささか冷淡な反応を示す。登竜門を旧世代の人々が次々に上っていったことで彼らは困惑していたのだ。OVは「“新しい撮影所”」であると、かつても今も評される一方で、黎明期には混乱もあったと明らかになった。
こうした前提を踏まえ、改めて『勝手にしやがれ!!』シリーズを見ると、事態は異なる様相を呈してくる。人が『勝手にしやがれ!!』シリーズに言及する際、プログラム・ピクチャーというワードが出てくるのが常だが、そもそもはOVじたいがプログラム・ピクチャー的性格だったのだ。そして本シリーズは作家の過去の小品ではない。確かに小道具や編集の手捌き、「向こう」への憧れという主題などはその後の黒沢清の映画と呼応するだろう。だが、『勝手にしやがれ!!』シリーズはそのような萌芽を宿した作品であると同時に、既存のOVを裏切ることでコメディとしての色合いを濃くする逸脱とも取れる。また黒沢がこれらを監督した背景には『スウィートホーム』裁判に起因する「都落ち」があり、この意味で黒沢は他のOV監督とは異質の「呪われた映画作家」だといえよう。そして、彼が「映画作家」たり得たのは、撮影所なきあと、本人もまだ知らぬうちに、やがて商業映画の道へ行くために自主映画監督としてキャリアをスタートさせたことだった。
本論では、『勝手にしやがれ!!』シリーズをOVのコンテクストに置いた結果、この作品が既存のOVから逸脱していると明らかになった。だが、同時にひとつの疑問も浮かぶ。黒沢映画において、システムからの逸脱は一体いかなる役割を担うのだろうか。『ドッペルゲンガー』(2002年)など、複数のジャンルを横断する映画を作る傾向にある黒沢だが、こうした体系との距離の取り方はどのように捉えられるか、今後の研究で明らかにされねばならないだろう。

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