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【公開研究会に向けて】 ドゥルーズ+ガタリ 『カフカ』 第2章「太りすぎのオイディプス」要約

11/5(日)と11/25(土)に、「ドゥルーズ+ガタリのマイナー文学的戦略から問う人文知の『出口』」という公開研究会を開催します!!

 今回はこの研究会の開催に伴い、D+G『カフカ』から(特に重要な(?))第1章と第2章の、1,000字程度のカンタンな要約を共有します(ページ数は、『カフカ〈新訳〉: マイナー文学のために』のものを表します)。

👉第1章はこちら


D+G 『カフカ マイナー文学のために』 第2章 「太りすぎのオイディプス」要約

 カフカをどう読むべきか。D+Gが提示するのは、カフカのなかに「神経症タイプの古典的オイディプス」ではなく、「倒錯的なオイディプス」を見出すことです。それは、具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。

 ここでD+Gが具体的に扱うのは、カフカの『父への手紙』という作品です。『父への手紙』は、カフカが自身の父親に宛てて書いた実際の手紙がもとになっており、この作品のあらすじは、父親からの「自分をなぜ怖がるのか?」という問いに対して、息子のカフカがそれに応えるという形式で、父親を恐れる根拠が説明されていくというものです。

 全ては父のせいで自分=カフカ自身はこんなひどい目にあっている…だからこそ父親を恐れている…という具合に。この作品を診て、例えば精神分析は、「カフカは父との関係に由来する反動からこんな作品を書いたのだ」という(惨めな)解釈を下すことでしょう。このような解釈をD+Gは「神経症タイプの古典的オイディプス」と呼んでいます。

 しかしながらD+Gによれば、このカフカの手紙というのは真っ赤な嘘であると言います。父を嫌い、告発し、その有罪を宣告するという手つき(=「神経症タイプの古典的オイディプス」)は、そもそもカフカの念頭にはないと言います。そうではなく、むしろ父の無罪を引き出すことこそが、カフカの目的だと言うのです。そのためにこそ、カフカはあえて倒錯的に、自身が父に対する反動に支配されているかのようなフリを過剰にしたのです。この過剰さを、D+Gは「倒錯的なオイディプス」と呼んでいます。

 では、このあえてのフリ(=オイディプス構造をあえて肥大化させること)とは、いかなる目的のもとに行使されるものなのでしょう?『父への手紙』で見られるように、自身の生が父によって宿命づけられているフリをし、そのことを過剰なまでに告発することに、一体どのような効果があるというのでしょうか。

 D+Gは、このように父を代表とするような家族関係におけるオイディプス構造の(あえての)拡大とは、オイディプス構造のなかに再領土化するのではなく、むしろその構造の外の世界へと脱領土化していくために行われているのだと断定しています。

 不条理なまでに、そして滑稽なほどに、オイディプス構造を拡大することによって、オイディプス的な家族の三角形(父-母-子供)の背後に、それよりもはるかに能動的な別の三角形という「出口」が見つかります

 それは例えば、『審判』において、父のこと(オイディプス構造)を詳細に記述しようとすると、父の背後にある別の三角形:ドイツ人・チェコ人・ユダヤ人の政治地理学的三角形がどうしても出現することになり、はじめあったオイディプスの三角形はぼかされ、変動することになるように。

 そして、このような別の三角形という「出口」が見つかることを、D+Gは「動物になる」(精神分析的に特権的な意味作用から逃れ、「意味」という問題がそもそも起こり得ない、非有意的な記号の世界が広がる)という逃走線が描ける可能性へと開かれることとも言い換えています。

 このような効果を目論んでいたからこそ、(『父への手紙』において)カフカは、わざわざ倒錯的に、自身が父に対する反動に支配されているかのようなフリをしたのです。このフリを、私たちは精神分析のように本気で受け取ってはなりません。

(第2章 終わり)



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