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【公開研究会に向けて】 ドゥルーズ+ガタリ 『カフカ』 第1章「内容と表現」要約

 11/5(日)と11/25(土)に、「ドゥルーズ+ガタリのマイナー文学的戦略から問う人文知の『出口』」という公開研究会を開催します!!

 今回はこの研究会の開催に伴い、D+G『カフカ』から(特に重要な(?))第1章と第2章の、1,000字程度のカンタンな要約を共有します(ページ数は、『カフカ〈新訳〉: マイナー文学のために』のものを表します)。


D+G『カフカ マイナー文学のために』 第1章 「内容と表現」要約

 この章でD+Gがテーマとするのは、(例えばラカンにおける「ファルス」のような)特権的な意味作用から逃走すること、つまりは、一つの固定的な解釈を生み出そうとするあらゆる試みを妨害する(=象徴的構造を破壊する)ような「人間ー機械」というもの、そのような妨害を企てる実験的な人間になることです。そして、そのような逃走を導く際に重要なトリガーとなるのは、カフカ作品においては「音」なのだ、とD+Gは指摘しています。

 D+Gに言わせれば、カフカ作品というのは「リゾーム」であり、「巣穴」であると言います。つまり、カフカ作品が私たち読者に求めているのは、なにもこの作品を一義的に解釈することではないのです。カフカ作品が私たちに提案しているのは、むしろ解釈という凝り固まった意味作用の結びつきをほどき、新たな地図を見つけ出す実験なのだということになります。

 具体的に見ていくことにしましょう。カフカの作品においては、「肖像ー写真」、そして「落ち込み、うなだれた頭」という二つの要素が頻繁に現れます。

 (ここから少し難しくなりますが、)これらの要素は、「肖像ー写真」が表現(シニフィアン)の形式として、「落ち込み、うなだれた頭」が内容(シニフィエ)の形式として強固に結びついてしまいます。しかしながらこのような結びつきは、上述したこの章のテーマに反するような、一つの解釈という袋小路につながってしまうことになるでしょう。このままではカフカ作品の持ちうる実験的欲望が無力化されてしまいます。(この部分は未読の読者の方には難しいですが、つまり、カフカ作品において、「落ち込み、うなだれた頭」(⤵️)ばかりに焦点が当たってしまうことを指すでしょう

 ここで登場するのが、「純粋な音の素材」です。D+Gによれば、このような「音」の一撃は、「欲望を折り畳むのではなく直立させ、時間において移動させ、欲望を脱領土化し、その連結を増殖させ、別の強度のなかに導く」ことになると言うのです。具体的には、カフカ作品のあるシーンにおいて、このような「音」の表現が介入するとき、「うなだれた頭」(⤵️)という頻出の「内容」が、「もたげた頭」(⤴️)という新たな「内容」へと「直立」する運動に開かれることとなります。

 例えば、カフカの『変身』をみてみましょう。『変身』には、次のようなシーンがあります。

「妹は[ヴァイオリンを]とても美しく弾いていた。(…)グレゴールは少しばかり前へはい出し、頭を床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。彼にはあこがれていた未知の心の糧(かて)への道が示されているように思えた。妹のところまで進み出て、彼女のスカートを引っ張って、それによってヴァイオリンをもって自分の部屋へきてもらいたいとほのめかそう、と決心した。」

(青空文庫『変身』(原田義人訳)より)

 このシーンでグレゴールは、ヴァイオリンの「音」を聴くことを起点に、「少しばかり前へはい出し、頭を床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうと(⤴️」しています。

 D+Gによると、このような「音」とは、「〈子供になること〉、あるいは分割不可能な〈動物になること〉(p.4)」とも関わるのだとも付け加えています。

 しかしながら注意しなければならないのは、ここでの「音」とは、作曲され、記号として組織化された「音楽」ではなく、「純粋な音の素材」を指すということでしょう。言葉の(意味作用の)響きをかき乱す、とても音楽的には聞こえない、ヘタクソでピーピー鳴っているだけの、単なる音。それこそがここで言われている「音」なのです。

 カフカの興味を引くのは、このような強度の純粋な「音」という物質であり、これはいつも自分自身の消滅(人間をやめて動物になること、非人間になること)と関わっています。つまり、その「音」とは、脱領土化された楽音(なんらかの権力に服従していない、そこからの脱却をした「音」)であり、意味作用、構成、歌、言葉などを逃れる「叫び」のようなものであり、有意的な連鎖(=シニフィアン連鎖)から離脱しようとして断絶する音響なのです。

 そして、最後に議論されるのは「自由」と「出口」の対比です。

 D+Gは、一義的な意味作用への服従に反対し、別の意味作用=別の有意を持ってきて対抗しようとすることを「自由」と呼びます。カフカで問題となっているのは、このような「自由」ではないと言います。

 そのような「自由」ではなく、(有意性から離れた)非有意的な逃走の「出口」を(「音」をたよりに)みつけること。これこそがD+Gにおける、カフカのエッセンスなのです。

(第1章 終わり)



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