<旅行記>新・総曲輪通りでつかまえて――3年半ぶりの富山(後編)
富山旅行2日目の朝は早かった。日差しが気持ちいい。雨が多い富山で連続して青空の下過ごせるのはありがたいことだと僕は知っていた。恋人は「私、本当に晴れ女なんだよね」と胸を張っている。
富山駅からあいの風とやま鉄道に乗り、魚津へ。蜃気楼をモチーフにした魚津市のゆるキャラ「ミラたん」の像があちこちに建っている。
少し歩き、「海の駅 蜃気楼」へ。なぜかフォントが古印体で、おどろおどろしい割にカラフルなので「ちぐはぐだね」とふたりで笑った。
「海の駅 蜃気楼」で自転車を借りて、富山湾岸に漕ぎ出した。共通券を買って魚津水族館と魚津埋没林博物館の2施設どちらにも訪問しようという計画である。海沿いの一本道。「しんきろうロード」と呼ばれるサイクリングロードだ。雨風を避けるために等間隔で松が植えられていた。
道中には「米騒動発祥の地」があり、すぐ横は大町海岸公園という小さな公園になっていた。「『日本之下層社会』で知られるジャーナリスト、横山源之助の碑や「しんきろうの鐘」も公園の中にある。観光地ガイドには載っていない、なんだか絶妙な場所だ。
水族館が近づくにつれ、整然と作物が植えられている畑に恋人が気付いた。大麦畑だった。麦茶の材料とするためらしい。この街で麦が栽培されていることを知らなかった。2年間同じ県に暮らしていてもまだ新しい発見ができたことが嬉しい。
魚津水族館は1913年開館と日本に現存している水族館では最古を誇り、水中トンネルの設置も日本初と挑戦を続けている水族館でもある。小さな規模の水族館だが、地域性のある展示種に力を入れていた。ダイビングが趣味の恋人は水族館スタッフの潜水服のコーナーをずっと見ていた。
水族館を出たあと、恋人が「観覧車にも乗ろうよ」と提案してきた。魚津駅前で無料券をもらっていたのだ。魚津水族館の向かいにあるミラージュランドは北陸では最大規模なのだという。
観覧車から見える海は凪いでいた。能登半島までよく見えた。穏やかな時間だった。富山で過ごした2年間、職場の人と出かけることはあったけれど、基本的にひとりでどこか気を張っていた。それは僕が「たびのひと」だったからだ。こうやっておだやかに誰かと富山湾岸を眺める日が来ると当時は思っていなかった。
帰り道は行きよりも短く感じた。海の駅で自転車を返し、お昼ご飯を食べて埋没林博物館に入った時だった。館内に緊急地震速報が鳴り響いた。
14時42分頃、能登半島で震度6強を観測する地震が発生。館内も揺れが続いた。この時、富山県では震度4を記録している。
博物館のスタッフの方々は冷静だった。エレベーターをはじめ設備をてきぱきと確認すると、すぐに異常ないことを知らせてくれた。
埋没林博物館には富山に暮らしていた頃も訪れたことがあったが、地震の直後に埋没林を観るのはもちろん初めてだった。巨大な古木の根が揺らめく水の中に沈んでいて、異様な美しさを見せていた。恋人は息をのんでいた。
帰りのあいの風とやま鉄道は動いていたので富山駅までは難なく帰ることができたが、北陸新幹線は大幅に遅れていた。17時に経つ予定が、2時間近く待つことになるのだという。
長く楽しい旅行の最後に起きたハプニング。駅はごった返していて落ち着けそうになかった。この様子ならカフェに入っても座れるかは分からないだろう。
ふと、富山駅前の商業ビル「CiC」に市立図書館の分館が入っていることを思い出した。席は十分あった。G7の教育大臣会合が近く富山市内でも開かれるからか、教育に関する本が特集されていた。それでふたり昔話をしながらのんびりと待つことができた。
北陸新幹線は遅れながらも着実にダイヤを消化していった。高速鉄道網の強靭さに感謝した。もう一泊してもそれはそれで楽しかったかも知れないけれど。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230505/k10014058351000.html
帰りの新幹線の車内でニュースを観た。ミラージュランドの観覧車が地震で揺れている映像をNHKの職員の方が偶然撮影していた。つい少し前に見た同じ風景だ。自分たちが観覧車に乗っている時に地震が起こっていたら。今回は津波は起きなかったけど、富山湾岸を自転車で走っている時に大津波が押し寄せたとしたら。
当たり前の旅なんてないのだと思う。「富山は立山が守ってくれる」と富山県の人は言う。それでも、何が起こるかは分からない。
上野駅に無事に到着したとき、時刻は21時半を回っていた。へとへとだったけど、充実感があった。旅の時間だけではなく日常をもっと共有したいと強く思えた。
「今回行けなかった立山にも行きたいね。雄山の山頂に登ってみたい」と恋人は言った。アクティブでタフなひとである。富山県の違う魅力を求めて、再び「たびのひと」になる日は遠くないはずだ。