あの日見たオランウータンの名を、豊島与志雄は知らない
"言葉を持つことだ。オランウータン、自分自身の言葉を持つことだ、そう私は繰返したのである"
豊島与志雄(1890〜1955)という作家がいる。
大正〜戦後にかけて活躍し、芥川龍之介や太宰治とも親交を結んだ。太宰が玉川上水で自死した時は葬儀委員長も務めている。ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』や、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』といった大長編の翻訳は、岩波文庫に収められている。
その豊島与志雄に、『オランウータン』という掌編がある。1927年初出だから、かなり古い時代の動物園の様子が記述された私小説だ。
動物園で、一匹のオランウータンを、私は一時間ばかりじっと眺めていたことがある。(中略) 彼は高い台座の上に、敷物をしいて坐っていた。時々敷物を裏返ししては、蚤か虱かを探しているようだった。それから、のっそりとはい出してきて、鉄格子に四肢でつかまり、見物人たちの方を、没表情な顔付で、ひとわたり見廻して、またのっそりと、座席に戻っていった。ただそれだけのことである。
日本の動物園で初めてオランウータンの飼育展示を行ったのは恩賜上野動物園であり、1898年のことだった。当時の飼育環境ではオランウータンは長く生きることが難しく、来園から5ヵ月あまりで幼くして命を落とした。
その後も何度かオランウータンは日本に渡来したが、いずれも短命でこの世を去っている。
"GAIN"(大型類人猿情報ネットワーク)で調べたところ、1898年にオランウータンの飼育展示が始まってから、日本が第二次大戦の泥沼へ突入していく1938年までの40年間に17人のオランウータンが上野動物園へ来園しているが、最長でも2年ほどしか生きられなかった。彼らの名前についての記録は残っていない。豊島与志雄が目を奪われ観察したオランウータンはいずれの個体だったのだろうか。知るすべもない。
名古屋市東山動植物園で飼育された「正吉」は、1928年に来園し、1938年まで生きた。三輪車に乗るなどの動物芸で知られたと言うが、記録はあまり残っていない。
日本統治下の台北市立動物園で一番の人気動物だったのも、オランウータンだった。大阪市天王寺動物園から1915年に寄贈され、「一郎」と名付けられた台北のオランウータンは人々に親しまれた。大きなフランジオスとなった1941年の写真が、今も台北市立動物園に飾られていた。同時期に日本本土で飼育されたどのオランウータンよりも長生きしている。
その「一郎」も戦時下の混乱の中、猛獣処分の対象となり、いのちを奪われた。
1955年、豊島与志雄はこの世を去った。この年、経済企画庁長官であり、日本動物園水族館協会の「高碕賞」にも名を残す高碕達之助が、インドネシアで開かれたバンドン会議に出席していた。
彼はこの時、インドネシア政府から贈られたひとりのオランウータンを連れて帰っている。60年近くの長きに渡り上野動物園・多摩動物公園で暮らし、人々に親しまれた「モリー」さんだ。戦後日本のオランウータン飼育史は、ここから始まった。
豊島与志雄の『オランウータン』に登場する「私」は、肉親の死ののち生活に困窮し、恋人とも破談し、将来の希望も描けず、ただ銀座裏と動物園を行き来し、逍遥する。そんな中、オランウータン舎の前で偶然学生時代の友人と邂逅し、旧交を暖める折、「オランウータンだ。」とふいに口走る。
人は猫にも犬にもなれるものだ。オランウータンなどには雑作なくなれる。
形態が、いや姿態が、心理を決定するのだ。
変わってしまった古い友人と過ごした時間の中で「何かしら胸の中に一杯鬱積したもの」を感じた「私」は、ことばを持たないオランウータンになりたかったのだろうか。
繰り返す退廃の中で、「云うべき言葉も、祈るべき言葉も、呪うべき言葉さえも持たなかった」「私」は、しかしそれでも、最後にこのように続けているのだ。
言葉を持つことだ。オランウータン、自分自身の言葉を持つことだ、そう私は繰返したのである。
ヒトはことばによって身を守る。100年近く前の日本の動物園を舞台にしたこの短い物語には、意志を持つこと、ことばを放つことから始まる門出が記されているように思えた。