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月報(2021年4月)

※2021/4/25 記事内容を追補しました。

■ 振り返るにはまだ少し早いけれど

 この「月報」を書いている4月24日はまだ翌月まで1週間を残している状況ですが、「要請」により著しく生活が制約を受けることになる日々はもう目の前に迫っています。ある種の区切りになるのかな、と思いながら綴っています。

 3月の「月報」で予見したとおり、4月はとても慌ただしく個人的には余裕のない日々が続きました。当初想定していなかった課題にも取り組むこととなり、空回ることやくやしいことも多い毎日です。

 目の前の解決すべき事項に取りかかるのに精一杯で、個人的な創作活動もほとんどストップしてしまっている状況です。

 こまめに手入れしたいことに着手できないのは歯がゆいですが、今はただただ毎日必死に生きて、生活をしている、といったところです。

■ 動物園は禅だ

 とはいえ、救いもありました。東武動物公園と越谷市キャンベルタウン野鳥の森に再訪し、気候の良い中で好きな動物たちに向き合った時間は、ヒトの世の憂きことを少しだけ忘れることができたひとときでした。

 余裕がない時期の私にとって、動物園は考察の対象というよりは禅の道場のような場所だと感じられることがあります。

 多様な生きものをまなざし一瞬だけ思考を手放すことは、自分たちを相対化する機会を持つことでもあると思っています。

 次に動物園や水族館を訪れる機会がいつやってくるかは分かりません。ただ、いま書いておかないと忘れてしまいそうな気がして、急ぎ綴っています。

■「写真が始まる」展を鑑賞した

 東京・馬喰横山のgallery αMで開催されている、写真家の黑田菜月さんが手がけた「写真が始まる」展を観たのも4月です。横浜市金沢動物園で子どもたちが参加したワークショップを作品とダイアローグで活写する「友だちの写真」、ケアの現場で撮影された写真を絵解きをするように関係する人々がまなざし回顧する「部屋の写真」の二編、映像作品が上映されていました。

写真が始まる

 写真が持つ、今と過去、今と未来をつなぐはたらきが、光と影のようにそれぞれの作品で映し出されてました。とりわけ「友だちの写真」の舞台である金沢動物園は私自身にとっても思い入れ深い場所だったので、そこで撮影された写真を通じ未知の「友だち」との交流が始まっていく光景にじんわり胸があたたかくなりました。

 会場には待合室が設けられており、黑田さんが撮影されたほかの写真も飾られていました。京都市動物園で長寿を全うした老ライオン、ナイルを悼んで放飼場前に積まれた花束をじっと見つめる少年の写真が印象に残りました。「京都市動物園最後のライオン」となったナイルがいた風景の記録であるとともに、そこで確かに何かを感じている少年の感情が伝わってきたからです。

 まだ展覧会は続いています。入口は動物園への関心だったけれど、静謐でよい時間を過ごすことができました。

■ 「Among us」やってみた

 通話アプリ「mocri」で繋がって仲良くして下さっている方に誘われ、宇宙人狼ゲーム「Among Us」で遊ぶ機会もありました。Discordをつないでワイワイ喋りながらゲームをするのは初めてのことでした。私はゲーム機を持っておらずふだんスマホゲームの類もやらないので、新鮮で楽しかったです。

 なお、たいていの会で下手すぎて真っ先に捕食される役でした。狼役もやってみたいです。

■ インタビュー記事「『サル』が好きすぎて」公開

 4月はまた、インタビューして頂いていた記事の第1回がリリースされました。

 「本屋しゃん」として活動を展開されているなかむらしょうこさんの募集に参加し、2月下旬から続けてきた往復書簡が基になっています。素敵な記事にしていただき、ありがとうございます。

 これまでtwitterやnoteで個人として綴ってきた内容と重複している部分もありますが、インタビュアーであるなかむらさんの問いかけ、そして多彩な話題の引き出しに触発され、饒舌になっているかも知れません。往復書簡は現在もゆったりとしたペースで続いています。

■ お経について(わたし自身のことばでしゃべってもいいですか)

 なかむらさんとの往復書簡が一編かたちになったこともあり、「自分のことばでしゃべること」についてたくさん考えたひと月だった気がします。

 高校生くらいの頃から、説明を求められたときに「何かを写したみたいにしゃべるんですね」と(半ばあきれたように)注意されることが時々あって、働き始めてからいっそうその傾向は強くなりました。

 「(ちゃんとした場面だから)ちゃんとしたことを言わなくちゃ」と意識してしまう時に、自分のことばに翻訳するんじゃなくて、どこかに書かれていた「正しそうな文章」を、お経みたいに読み上げてしまう癖がついている。読み上げだから、「私の意見」は私の説明には差し挟まれない。結果として、理解してないんじゃないか、と思われるようであれば、文章としては正しくても、説明としては正しくなくなってしまう。

 そこまで分析できているのにそんな感じになってしまう根底にあるのは、「説明する」ということに対する怯懦さなんだと思っています。

  「霊長類」についてのインタビューを通じ、リラックスした時間に、自分の好きなものについて話をするときは、自分のことばに置き換えることができていることが分かりました。

 だから、変なところでブレーキをかけずに自分のことばに翻訳する練習をもっと意識してもいいんじゃないかな、と気づきつつあります。ずいぶん時間がかかってしまいました。でも、気づいたなら前よりはうまくできるはずです。

 多少粗削りでも翻訳して自分のものにしたことばを(立場や場面や状況に応じて)どこまで表側にしていくかは、また別の練習が必要なのかも知れないけれど。やってみましょう。やっていくしかないんだと思います。

■ そしてたたかいは続く

 冒頭に書いたとおり、一息つけるまではまだ少しかかりそうです。個人的なくわだてごと、たくらみごとにちゃんと取り組めるのは、5月も終わりごろになってからかも知れません。

 それまで転覆しないように、バランスを取りながら、自由がきく時間はしっかり自分のことを大事にしながら、操舵していけたらいいなと思っています。おもかじいっぱーい。この記事を読まれている皆様もどうかご自愛ください。