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2014/03/03〜06 ホーチミンシティ/港市ミトー


    そうか、もうあの旅からもずいぶん経つんだな。








 はじめに思い出すのは青っぽいパクチーの香りとこんがりしたパンの香り。ベトナムはもともとフランス領だったからか、マーケットにはたくさんのフランスパンが売られていた。街を歩けばそこここの屋台で「バイン・ミー」と呼ばれるフランスパンのサンドイッチが売られている。パクチーがいっぱい入ってるやつ。とびきり美味しかった。



     ベンタイン市場の裏通りには丸ごと一尾のナマズや、大きな魚の切り身が豪快に売られていた。鮮やかなフルーツやインスタント食品や原色の繊維品もマーケット中、あまり脈絡がなく所狭しと並べられていて、どれもこれも煌びやかで同時に沈鬱な匂いを放っていた。


 ホーチミンシティに着いてすぐ僕が身につけなくてはいけなかった技術は、バイクの大洪水の中を泳ぎ切ることだった。信号はまるで機能していないようだった。旅を前に進めるために僕は手を挙げて横断歩道を渡った。小学一年生に戻ったみたいだ。でも、バイクに乗った人々は確かに僕を待ってくれた。


    ホーチミンの街には首輪のついていない犬たちがたくさんいた。野犬なのか飼い犬なのかも分からない。狂犬病が怖かったので遠巻きに見るだけだったけれど、3月でも30度を超える暑さの中で犬たちはへばっていた。


 アジアでも屈指の長い歴史を持つサイゴン動植物園もこの旅では訪れたのだけど、まだそこまで動物園に関心を強く持っていなかった時期だったから、写真は全然残っていない。ここは爬虫類館。小型のワニを見た記憶がある。


 それよりも隣接するベトナム歴史博物館の展示の方が当時の僕の関心を惹きつけた。高校時代は世界史が好きだったけれど、「港市オケオ」も「チャンパー」も「ドンソン文化の銅鼓」も、大学受験以外で100パーセント一生使うことのない知識だと思っていた。でも頭の片隅に残っていたから、ちゃんとこうして感激できたじゃんね。紙の上で勉強したことと現実がつながって、楽しみが広がった瞬間だった。




 2日目はベンタイン・バスターミナルからミェンタイ・バスターミナルを経由し、郊外の港町ミトーへ向かった。当初の旅程にはなく、現地で気まぐれに決めたことだった。怖いもの知らずだった。ミトーに向かうバスはよく揺れたが狭くもなく快適だった。


 隣の座席には20代中盤くらいの青年が座った。彼は僕に、ミトーが出身で時々ホーチミンから帰っているのだ、と簡単な英語で挨拶をし、ドリアンを練りこんだ餡が入っている巨大なもなかのような菓子を半分くれた。中華まんくらいの大きさがあったので半分でも十分だった。どんどん景色はのどかになっていった。国道一号線沿いでは茶色い牛も歩いていた。そうこうしているうちにミトーの街が僕たちを迎えてくれた。



 ミトーの街に着き、木陰の喫茶店でココナッツミルクの入った甘いフローズンを飲んだ。注文を取ってくれたのは茶色い髪をした10代の女の子で、英語が分からなかったので指差し会話帳で「おすすめを下さい」とお願いしたらこの飲み物が出てきたのだった。客は少なく、店員の女の子はしばらくするとテラスの前の木に吊るされていたブランコで遊び始めた。フローズンは少しべとべとして喉が渇いたが何故だか気分は爽快だった。




    通りでは小さな椅子と机を置いて茶を飲みながら象棋(シャンチー)を指す人たちの姿が目に着いた。同じ日に乗船したサイゴン河のクルーズでも、iPadのアプリで象棋の対局をする人々の姿を見かけた。ベトナムではとてもポピュラーなボードゲームのようだ。




 すべてのものごとが新鮮だった。とりわけミトーの街で目にした、メコン河に並んだバラック造りの建物たちは、この大河の上にも人々の暮らしがあるのだ、という事実を、言葉なしに物語ってくれた。




 この時のベトナム旅行では他にもいくつかのエピソードがあるのだけど、ここでは割愛しようと思う。旅そのものを目的にした旅は、もしかしたらこの時が最初で最後だったかも知れない。同行者はいなかった。まったく知らないアジアの国に男ひとりで貧乏旅行なんて80年代の自分探しの広告みたいで厭だな、なんて出発前は思っていたけれど、それでもこうして何年も経っても懐かしく振り返ることができるのだから、良い旅だったのだろう。そう思うことにしよう。