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【怪談屋06】滝本さんと壁の傷

※音声配信など、朗読に限り使用自由です。

魂は上りて神となり、魄は下りて鬼となる。
そして、百の物語が紡がれし夜、何かが起こる。
私の体験を記したものや、知り合いになった人から聞いたこと、あるいは創作など。

これはKさんが、東京の大学に通う兄から聞いた話だ。

兄が独り暮らしを始めたばかりのとき、家賃の安い古アパートに住んでいた。

ある夜、アルバイトから帰った兄は、ひどく疲れていたので、キッチンのある廊下に荷物を置くと、そのまま奥の洋間の床に倒れ込んだ。

風呂に入る気も何かを食べる気にもならず、BGM代わりにテレビをつけたまま、兄は携帯をいじる。翌日の学校は昼からだった安心感もあって、そのまま無為に時間を過ごすうち、いつのまにか眠りについてしまった。

電気もテレビもついたままの部屋で兄が目を覚ましたのは、夜中の1時か2時頃だ。
最初は隣の部屋からの物音だろう、と思った。

がり、と壁を掻くような音がした。

兄は目をこすって起き上がる。

するとまた、がり、がり、という音が聞こえた。
兄は完全に目を覚まし、音のした方を見る。
入口の正面、小窓のある壁の、隅から聞こえた気がした。兄は怪訝に思い、立ち上がって部屋の壁を確認する。窓の左脇にはテレビがある。そして、右脇には、兄の胸の高さあたり、小さな傷がいくつもできていた。
真新しい壁にできた、引っ掻いたような痕。
越して来たとき、こんな傷は無かったはずだ。
その翌日も、兄は夜中に同じ音を聞いた。
朝方に壁の様子をあらためると、また、傷の痕が増えていた。ねずみ色の肌、生気の無い女が壁を引っ掻いている……兄の頭の中に、そんなイメージが浮かんだ。

後日、友達づたいに知り合った、同学年で霊感のある女性、滝本さんが部屋に来ることになった。紹介してくれた共通の友人は、冷やかしに来る予定だったが、当日になって急用で来れなくなった。
アパートの部屋の前で、兄は部屋のドアに手を掛ける。
「あのう……居ると分かるもんなんですか」
兄が聞くと、滝本さんは答えた。
「見えるわけじゃないですけど、気配で分かると思います。たぶん」
想像よりもいくぶん頼りない答えが返って来た。とはいえ、奇妙な体験が初めてだった兄からすれば救世主だ。兄はじゃあ、お願いします、と言って扉を開け、滝本さんを部屋に促した。

部屋の電気を点ける。
何の変哲もない、自分の部屋だ。正直、好き好んで他人に見せたくはなかった。
ことのあらましは伝えてあったものの、あまりあちこちを見られるのは気まずい。すぐに済ませようと、あそこです、と部屋の隅を指差そうとした。
……しかし、滝本さんはもう、部屋の一点を見つめていた。入口正面に見える小窓だ。そこへ向かって、彼女は歩みを進める。
そして、右の脇にある傷を、ゆっくりと指でなぞった。ちょうど、兄の想像した幽霊のように。
滝本さんはしばらくそうしたあと、唐突に口を開いた。
「隣の人、最近引っ越したんですか」
「え? ああ、そういえば。……自分と入れ違いくらいのタイミングで、越してったかな」
その人も、独り暮らしの男性だった、と記憶している。そうですか、と彼女。どうしてそんなことを、と聞く勇気が、兄には出なかった。どうやら本当に、得体の知れない事が目の前で起こっている。そんな気がしたのだ。
結論から言って、すぐに悪いことは起こらなそうだ、ということだ。隣の部屋がどう関係するのか、滝本さんは言わなかった。
そして、何故かこう付け加えた。
「椅子でも置いてみては、どうでしょう」

兄はその日から、部屋の隅に椅子を置いた。
すると、状況に変化が起きた。新しくできた傷の位置が、兄の腰のあたりまで下がったのだという。
「……幽霊も、腰休めとかするのかよ」

Kさんの兄は今、アパートの残りの契約期間を残したまま、別の部屋を探しているそうだ。
これは余談だが、あれから兄はテレビの位置を、椅子の正面に動かした。壁を引っ掻く音は、とりあえずそれで止んでいるという。

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