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感情の常連客

「感情の常連客」というワードは、今日参加した、演じないワレモロWS『話しづらい話をしようの会』で、私が話した言葉を受けて、他の参加者の方が言ってくれたワード。それをお借りしてタイトルにしました。

私にとって、「死にたい」という感情は常連なのです。夜に気を抜いたりすると、ふっと希死念慮がやってきて、どうする?と言ってくる。どうする?じゃないのよ。でもそれは毎回しっかりした重さでやってくる。だから適当な軽い「死にたい」ではないのも本当。ただ眠って逃げて、翌日になると大体すっかり忘れているのも本当。

あまりにも常連なものだから、私はその言葉が持つある種の重さを忘れてしまってSNSに「死にたい」と書いてしまうことがあるのだけど、そりゃ突然深夜に「死にたい」なんて投稿が流れてきたら、ギョッとしてしまうよなとは指摘されて思った。私は常連がまた来たぞ、ぐらいの温度感で言葉を放ってしまうけど、それで人に心配をかけてしまうのなら、それは避けたい。

私は自分の記録用にSNSの投稿を使っているし、「死にたい」は常連客だから書いてしまうんだけど、実は書くのにはもう1つ理由がある。それは、希死念慮に囚われる人間も、普通に仕事して生活しているのだということを発信したいから。

人にもよる(死にたいと思う/思わない)し、その深度(寝たら落ち着く/毎日苛まれる)にもよると思うけど、私の場合は死にたいと思いながら生き延びようとしている。だから夜中に落ち込むけど、昼間は普通に仕事してたりする。もちろん、昼間にもうダメだってなってるときもあるし、夜中に今日はいい日だったって眠りにつけるときもある。

「死にたい」と言うやつは結局死なないみたいなのがあるけど、あれは違うと思っている。積もり積もった願望を叶えてしまう可能性はとても大きい。それは自分に対してもすごく感じる。だから生き延びるという言葉を使っている。

ただまあ、これが私の日常なんだよな。仕事頑張りたいのも、人と話して楽しいのも、ちょこちょこ死にたくなるのも、私にとっては常連客の感情だし、共存する。そこを下手にクリーンにするのもなんか違うなと思うけど、心配もかけたくないから、こうやってややこしく言葉をこねくり回している。

仕事しながら治療もしているし、自分の中にいくつかのアラートがあることも知っている。「死にたい」は常連客だから、これからの付き合い方を考えている真っ最中というところ。

気にかけてくださる人には申し訳ないなと思いながら、見守ってくれてありがとうと思っている。その存在が掴む石となり、落ちずに崖を登れているような気分です。

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