みんなの知らない「限界修論」の世界-「修論」という無理ゲーのクリアにむけて-
序論
本記事はアカデミックなことを真剣に書いてみる試みである。とくに筆者が経験した、修士論文(以下、修論)の執筆によって引き起こされる地獄を味わった経験について述べ、タスクをためないことへの訓戒をなすものである。
普段、何も考えず「エモい」とばかり申す筆者は残念ながら偏差値2しかない。ありがたいことに筆者の記事にスキをいただけるだけで、月並みなことだけど励みになる。たまに目も当てられないことを書いていれば、ごくまれに真面目に書くこともある。この「ごくまれに真面目に書いた」記事にスキをいただけると書いた甲斐がある。
手前味噌で恐縮だが、「ごくまれに真面目に書いた」記事がこちら。
ごく稀にこうしたアカデミックな記事を書くことがある。普段、雑文を書くことが多い筆者にとって、この類の記事を書くことはまたひと味違う趣きがある。
先週、以下の記事を投稿した。
上記の記事の中で、学部と大学院の違いについては以下のように大略した。
当記事では筆者が大学院にすすむことになった経緯だけを書いていたが、本記事では大学院に入ったその後について書いていく。とりわけ、修論書くにあたってぶつかった壁や難しいと感じた点について書いていき、修論という無理ゲーにいかにして立ち向かったのか。無理ゲーに立ち向かうことがいかに難儀か、読者の皆様に知っていただくのが目的である。そして、後進の学生諸氏には「修論」ないし「卒業論文」(以下、卒論)という無理ゲーにクリアできる一助となればいい。
推察するに、学部自体にゼミがなく、卒業に必要な単位を取得すれば卒論を書かなくても卒業した人もいただろう。卒論を書いた経験がある人も「卒論と修論で何が違うのか」と思う人がいることだろう。
かかる人のために、修論を書いた経験をもとに読者諸氏に知らない修論の世界を知っていただければ幸いである。
ちなみに、筆者の専攻は歴史学(日本近世史)で修論では江戸時代後期の幕府政治について論じた。修論の内容について大略すると
・ある政策について、どのようにして立案され、運用するに至ったのか
・幕府の役職によって異なる政治活動の実態を明らかにする
・将軍や幕府の要職者は、どこまで政治活動に関与していたか。
などを主に論じた。
本記事では、筆者の専攻に関することや筆者特有の事情にはなるべくふれないように心がけたとともに、修論にまつわる経験はあくまで筆者一個人によるものであることをご容赦いただきたい。また筆者は理系の論文執筆の事情はまったく把握していないため、理系の事情は考慮していない。
これから書く内容について、学部の段階ですでに教わることが大半だが、当時所属していたゼミには50人ほどいた。もはやゼミではなく講義形式をとらざるを得なく、個々に論文指導を受ける時間もなければ中間発表なる機会もなかった。そういった事情から、卒論執筆当時は「とりあえず体裁が保たれてて形になっていればよい」というのが最低条件だった。かかる上で、修論執筆の際には初めてのことばかりでかなり苦労し、頭を抱えることが多かったのである。それも踏まえてご覧頂きたい。
第1章 なぜ修論は無理ゲーなのか
本章では「なぜ修論は無理ゲーなのか」について、筆者の経験とともに論じていく。
まず筆者がつまずいたのが「研究史の整理」だった。トータルでみても修論を執筆する中でかなりの時間を費やしたのが「研究史の整理」だった。
研究を始めるうえでかならず行わないといけなくなるのが、この研究史の整理である。自分がこれから書こうとしている研究テーマの研究史を調べ、研究目的を見出さなければならない。卒論では「なんとなくこのテーマでやってみたい!」という理由でテーマを選んだ学生が多かったかもしれない。なぜこの研究をすべきなのか、研究史の整理によってこれまで明らかになっていることを洗い出す必要がある。これに筆者は苦戦した。なぜ、苦戦したのか、以下に考察する。
第1節 論文や本の探し方がよくわかってない
大前提にCiNii Researchや国書総目録を用いて研究論文や研究書を探すことは百も承知ではあるが、筆者は初手のレファレンス図書を漁るところから怠っていた。今思うと愚かなことであると猛省している。このレファレンス図書を漁る作業こそ研究のはじまりだった。
CiNii Researchにしろ図書館のOPACで検索をかけるとき、たとえば「教育の歴史」とだけ検索するとごまんとした数がヒットしてしまう。このなかから自分の研究に関するものを探すという作業が発生する。正直、こんなのやってられない。ではどうするべきだったのか。百科事典をまず確認することだった。
『日本大百科全書』、『世界大百科事典』、『日本人物文献目録』など各種の参考図書にあたるべきだ。調べたい項目を引くと最後にかならず参考図書が明記されている。けだし、百科事典はその参考図書を探すためのツールであったのだ。百科事典を見ずして研究は始まらないといっていいだろう。読者の皆さまはそれにくわえて、各専門の辞事典類をしらべるといい。
第2節 論文や研究書の読み方がわかってない
ここでいう読み方とは「➀学問上の問題意識」と「②学問上の位置付け」を読み取ることである。これができていないと「あなたの書く論文に意味がない」と突き返されてしまう。筆者はとても読み方が雑だったので、「まぁ、こんな感じだろう」という風にしかまとめていなかったために、ゆるっとした研究目的しか書けなかった。それが故、何度も指導教員に「ちゃんと読めてないね」と突き返されることしばしば。
そもそも読み方もわかっていないので、書く上での必要な知識がなかった。AとBという学説が対立関係にあるのにもかかわらず、Bの学説という存在を無視していたり、自分の書きたい結論ありきで論文を書いていたので、論理が飛躍したり、論点がずれてしまうこともあった。
そうならないためにまずすることは、こういった情報カードに1冊につき1枚にまとめるように要約すること。
そして文献リストをちゃんとつくる。そして何回も読み直すことが大事である。1回読んだだけで満足しないことである。人間、1回読んだだけで内容を完璧に覚えているはずがないのである。「まぁ、メモしてあるし大丈夫っしょ~」と思わないことである。あとからそのメモが「何のメモだっけ」となることがしばしばあった。何回も、何回も、読み直すことで今まで気づけなかった視点が見えてくるかもしれないからだ。
第3節 1日中かけて調べた結果「なにもわからなかった」という事実
ある程度の研究の方向性がわかったらいよいよ執筆だが、書いていくうえで調べ直さなければならないことや事実確認が必要になったとき、また一から論文や研究書を読むことがある。図書館で手あたり次第の論文や研究書を読み漁って、1日中調べた結果なにもわからなかったという日が何日もある。これがなかなかメンタルにくるものがある。せめてなにか1つや2つでもと思ってもな~~~んにも成果が得られなかったときは、そこからの立て直しが大変だ。執筆中はこれがかなりきつかった。今思うと、そんなことしょっちゅうあることだから気にせず根気強くなればよかったのだが、当時は「丸1日無駄にした」感が出てしまい、帰りの電車でひどく落ち込んでいたくらいだ。
第4節 そもそも論文の書き方をわかってない
はずかしいことだが、M1の4月になったときでさえ、「論文の書き方」をよくわかっていなかった。レポートと論文の違いもよくわかっていないし、授業で発表するレジュメの作り方さえわかっていなかった。それが故、「なにから書いていけばいいかわからない」症状が発症する。「第2節 論文や研究書の読み方がわかってない」ですでにその症状なので、「論文の書き方」などもってのほかである。章立ての仕方だったり、論の展開だったり、整合性だったり、論文特有の作法だったり…問題が山積みである。
第2章 「無理ゲー」とならないために
前章で「無理ゲー」となってしまう要因について述べたが、それをふまえて後進の学生のために「無理ゲー」とならないためにやっておくといいことを述べていく。あのときああしとけばよかったという後悔の念と、あのときこうしておけばよかったという筆者の経験に基づいた結果である。
第1節 指導教員の論文や著書を読み込む
論文指導してくれている教員からの指導を守るのはもちろんのことだが、論文の書き方で迷ったらまず指導教員の論文や著書を読み漁る。そこで論文の書き方というものを自分のものにする。論文がちゃんと書けないうちは自分風にアレンジすることなく、愚直に指導教員の論文の体裁をまねることが大事だ。少なくとも、論文の書き方や体裁にケチつけられることは減るだろう。注釈のつけ方も同様に指導教員の体裁に従えばいい。
第2節 先行研究の内容は一目でわかるようにする
先行研究で読んだ論文や研究書は目録を作る。これには内容を一目でわかるようにするための作業なのであるからだ。できれば年代順にまとめるとよい。できれば「何のために書かれた本なのか」「読んだ結果なにがわかったかandわからなかったか」が一目でわかるといい。また読み返すとなったときの参考になるし、なにより内容を忘れるということがなくなるからだ。Excelでもなんでもフォーマットを作っちゃってあとは打ち込むだけの状態にしておけば後が楽である。
第3節 先行研究は手広く読む必要がある
一見、自分に関係のない論文や研究書でも、思わぬところに自分の研究に生かすことができるヒントが隠されているかもしれないからだ。研究するうえでの基本的な考え方だったり、研究手法、参照すべき文献などがわかったりする。少しでも自分の研究テーマに関するものだったら手あたり次第読み漁ることをおすすめしたい。何十年の前の論文でも侮ってはいけないのはもちろんだが、どのような学問上の蓄積があって今に至っているのか年代順に追えるようにしておきたいところだ。
第4節 最終的な打ち込みは一番最後にやる
一見何のことかわからないと思うが、論文を提出する際は大半Wordで作成してプリントアウトして提出することになると思うが、Wordに打ち込む作業は提出の1週間前でよい。それまでは原稿用紙で手書きすることだ。手書きすることによって、論文の構成を意識しやすくなるし、読み返したときに誤字や脱字が一目でわかるからだ。パソコン上の画面で見ても実はこういうミスは発見しづらいのである。そうならないために、原稿用紙ですべて手書きしてチェックをふまえて初めてWordに打ち込もう。ここは正直アナログが勝つのである。
終論‐それでも修論は詰む‐
どれだけ用意周到に論文執筆をすすめても絶対にどこかで詰む。どうせM2の秋口になったら「ヤバい!詰んだ」となるのがお決まりなのである。提出日が近づくにつれて、教授からぼろクソに言われる悪夢まで見た。提出前の最後の3日間は不眠不休だった。また床から論文のコピーや本が山積みとなっていて、床から生えていた。そして提出最終日、屍になりながらようやく提出に漕ぎづけたのである。もう2度と同じ思いをしてたまるかと心に誓った瞬間だった。結果、僕の修論は最後まで脆い仕上がりになってしまったのである。本当にできの悪い院生でごめんなさいと謝罪するほかない。でも、最後の最後に思ったのが「自分ひとりで論文を1本書ききった」という自信と「修論書いてて楽しかった」という思いが勝ったのである。もう1度論文書きたいかと言われたもちろん書きたくはないのだが、この経験はたしかに今でも僕の中で生き続けている。
追記 筆者が実際に書いた修論の「はじめに」の部分をお見せしよう
ここまでお読みいただきありがとうございました。ここで「限界修論」の一例として筆者が実際に書いた修論の「はじめに」の部分をお見せしよう。どこにも発表もしていなければ(もちろん修了するために修論は学校に提出した)、修論を改変して論文雑誌に投稿しても良いのだが、そんな元気もなければ当分その予定もない。ある程度時間が経ったらこの追記は消すかもしれない。
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