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ほんの小さなやさしさが、ささくれ立った気持ちを癒してくれた。

"幸せって何だろう?"

思い返すと幸せだったなと感じる瞬間、こうだったら幸せだろうなという瞬間、あったっけな。ここ数年、大人になって泣くのが下手になっていた。走り続ける日々の中で僕はそれを忘れてしまっている。悲しいけれどこれが「大人になる」ってことなのかなと思い、半分あきらめている。泣いているより笑っているほうがストレスのない生活になるのは間違いないのだけどそうではない。感情がなくなった大人になってしまいそうな自分がすこし怖い。そう思うとせつなくなる。そういう日々の……積み重ねだ。

薄い遮光カーテンの向こうには初夏の風景が広がっているのが分かった。カーテンを開けることができない。身体がひどくだるい。昨日は1日中ベッドの上で過ごしていた。お風呂も入ってない、食事もまともに摂らずに寝ていた。このままだと人間の生活ができなくなってしまう。「人間らしい生活ってなんだ?」と思いながらも、人間らしい生活をしなけければ。そういう危機感に苛まれながら僕は無理やり身体を起こした。朝からうだるような暑さで少し蒸していたが無理やり熱い温度でシャワーを浴びた。

今日はとくに人と会う約束もなければでかける用事ない。だったら今日はもう一人の自分とデートしよう。そう決めた。最近買った洋服とおろしたてのニューバランスの靴を履いて最高のオシャレをした。電車に乗ってから行先も決めていなかったが今日は高円寺に行こうと決めた。何を買おうと決めるわけでもなくヴィレッジヴァンガードに入る。狭くて商品がごった返している小さな空間が居心地よく、非日常が味わえる。そこで僕はとりあえず、『汝、星のごとく』を買うことにした。「本屋大賞受賞」という大きな帯に導かれながらレジに持って行った。何買うか決めていないのに「いい買い物した」という高揚感を得て外に出た。

高円寺に僕の行きつけの喫茶店があるのでそこで本を読むことにした。静謐な空間で、読書のジャマをしない好きな空間で僕は一人、本の世界にふけっていた。『汝、星のごとく』はとてもとても感動的で、読書でしか得られない体験ができた。喫茶店で一人、涙をこらえながら本を読んでいる姿はとても奇妙だったに違いない。でもそんなの関係なく読み進めていたら物語も最終章にさしかかったとき

「あの…すみません…」

ハッ…と、声がした店員さんのほうを見た。

「もうすぐお時間となっております」

時間制となっていることをすっかり忘れて読書にのめりこみすぎていたようだった。

「あ、すみません。もうすぐ出ます…!」

「今読まれている本、もうすぐなようなので読み終えてからでもいいですよ。私も本読むのが好きなので気持ちわかりますよ」

お店のマスターがやさしく耳元でそう言ってくれた。人のやさしさに触れたのいつぶりだろう。『汝、星のごとく』の感動的な内容と、マスターのやさしいひとことで僕は一掬の涙を流していた。涙、この世に生をうけて最初に流すものだ。あらゆる体液の中でそれは唯一感情に影響されてあふれ出す。喜怒哀楽、感傷と感情の数だけ涙が流れる。流した涙の数だけ人は強くなれるような気がする。

お店を出るとまだ空は明るかったが着実に時が進んでいるのが分かった。まだこのまま帰りたくないと思い、僕が知るかぎりの古着屋をいくつか回った。何かいいものがあったら買うつもりでいたけど「これだ!」というものがなく、ちょっとだけの後悔とともに駅にもどろうと踵を返した。最後にと思って入った古着屋で「あ、いいかも」と思った1着を見つけた。普段なら服屋さんで店員さんに話しかけるなんてことは絶対しないのだけど、ここは勇気を出して

「これ、試着してもいいですか」

「もちろん、いいですよ」

と、やさしく試着室に案内してくれた。試着してみたらこれはもう買うしかないと思った。それほど自分好みの服だった。値札を見たらちょっと高かったけど、ここで買わなかったら次がないと思った。店員さんも「似合ってますよ」とほめてくれた。客が着た自分とこの洋服を「ダサい」と言わないのは至極当然の購買意欲を促す営業トークでしかないのはわかっているのに、今はなにを言われてもうれしい気分だった。

「いい買い物したなぁ」という満足感で外を出たら、空は時を刻み、暗くなっていた。手を伸ばしたらすぐに届きそうな距離にいる。どんな暗い感情も、どんな葛藤もすべて、空のどこかに飛んでしまったようだ。

名残惜しいが高円寺をあとにした。でもまだ帰りたくない自分がいた。もっとひとりで静かになれる場所はないか。そうだ、神保町に行こう。神保町にも遅くまでやっている喫茶店を知っているのでそこでまたゆっくりしようと決めた。神保町にある三省堂書店にいき、閉店時間ギリギリのなか『余命10年』を買った。普段ならあまり読まないジャンルだけどこれもまた勢いで買ってしまった。

その足で24時までやってる喫茶店に寄った。喫茶店といってもブックカフェなのだ。店内には所狭しと本が並べられている。さすが本好きが集う街だなと改めて思う。おいしいコーヒーとページをめくるたびに飛んでくるおいしい匂いにうっとりして、これもまた最高の読書体験をした。気づいたらもう23時になっていた。

「あ、ヤバい。もう終電じゃん」

と1人で笑いながら駅まで歩いた。自宅の最寄りについて、家までの距離をゆっくり歩いた。蒸し暑い日だったけど、夜の風が少し涼しく、やさしく頬をなでた。

自宅につき、そのままベッドにぼふっと倒れ込んだ。これが充実感というやつだ。「読み終えるまでまだ居ていいですよ」と言ってくれた高円寺の喫茶店のマスター。最後に寄った古着屋で「似合ってますよ」とほめてくれたお兄さん。最高の読書体験をくれた高円寺や神保町。今日起こったすべては、僕をやさしさで包み込んでくれた。思い切って外に出てよかった。この解放感と充実感に名前を付けるとすれば、それは幸せというやつだ。


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