64.火水未済(かすいびさい)~永遠の未完成①

六十四卦の六十四番目、火水未済の卦です。
爻辞はこちらです。
https://note.com/northmirise/n/na2da3db3e67f

64火水未済

1.序卦伝

物は窮まる可からざるなり。故に之を受くるに未済を以てして終る。

水火既済の卦によって、物事は一旦の完成をみたのでありますが、しかし究極なる完成、永遠の完成ということはないのです。完成した瞬間から毀損していくものであり、かつ他の色々な物事が次から次へと生じていくのであって、それらは全て未完成なのです。

結局のところ、未完成であることが始まりであって、かつ終わりでもあるのです。故に六十四卦の最後は、未完成を象徴する卦をもって終わるのであって、ここから始めの乾為天ないしは水雷屯へと戻り、延々と繰り返していくのです。

2.雑卦伝

未済は男(だん)の窮まるなり。

全ての爻が皆、あるべき所におらず、男すなわち陽が行き詰って困窮しているのです。

3.卦辞

未済は亨る。小狐(しょうこ)汔(ほとん)ど済(わた)らんとし、其の尾を濡らす。利しき攸无し。

六十四卦の旅は、未済すなわち未完成を意味する卦をもって終わりを告げます。

もし易が西洋の発祥であったならば、ベートーヴェンのシンフォニーの如く水火既済の卦をもって華々しく幕を閉じるのでしょう。しかし東洋は、どうやら悲壮感を漂わせて静かに除幕するのが好みであるようです。

完成という概念は幻想であり、完成したその瞬間からエントロピー増大の法則が発動し、崩壊していくのです。ですから未完成をもって終わる、というのは世界の真相を掴んでいるのです。

仏教においても、創始者である釈迦の時代から「無常」「無我」が世界の真実であって、アートマン(私)なる実体は存在しない、私が私であると固執している感覚はただの勘違いであって、実体にあらず、関係性(縁起)に過ぎない、と喝破されております。

結局のところ、全ての物事は完成を見ることはなく、静かに水雷屯へと戻っていくのです。これが易経の結論であり、易経のみならずあらゆる思想のロゴスであります。

この卦の構成は、あらゆる意味において水火既済と正反対です。水火既済の綜卦であり、互卦であり、生卦であり、裏卦であります。

まず六爻全てが不正の位置にあります。陽は陰位にあり、陰は正位にあります。全ての位置がチグハグなのです。

一方で、全ての爻が応じており、比しております。チグハグなようでありながら、チグハグでもないのです。協調する関係性にあるのです。

特に九二と六五が応じていることが重要です。中位が不正位でありながらも応じており、かつ天子の位置が陰爻でありますので、物腰柔らかにして、剛強なるものに従いながら事を進めていくのです。

上に火があり、下に水があります。これもまたチグハグな位置関係です。水が火によって暖められず、火が水によって消されない位置関係です。火は上に昇ろうとして、水は下に降りようとしております。ベクトルが向き合っておらず、お互いにそっぽを向いているのです。

内卦が我であり、外卦が環境です。つまり我は険阻なる坎卦の中にいるのですが、上を見上げると明晰にして明瞭なる太陽があるのです。初めは苦しいのですが、終わりは宜しいものが待っているのです。これもまた既済の卦と真逆です。既済は初めが宜しく、終わりが険阻なのです。

小狐汔ど済らんとし、其の尾を濡らす。未済を象徴するものは、成熟した狐ではなく、まだ未熟なる小狐です。既済の爻辞において「尾を濡らす」とか「首を濡らす」とかいう表現で登場していた生き物の正体は、どうやら狐だったのです。

狐は、穴倉の中に住まうものです。ですから坎卦の落とし穴の象にもハマる存在です。この子狐は、調子に乗って大川を渉ろうとし、なんとか川の半ばを過ぎるところまで届いたのですが、渉り切るには未熟であって、途中で尾を濡らしてしまい、渉ることが難しくなったのです。

そのようにして坎中に溺れているのですが、あともうほんの少しだけ頑張れば、明らかなる離卦が見えてくるのです。これが完成し尽くして後のない既済の卦とは良い意味で異なるところです。未来に光明が見えているのです。

未完成であるということは、伸びしろがあるということですので、まことによろしいのです。完成してしまうことよりも、未完成であることの方が、よほどお目出度いのです。

これが東洋流のフィナーレなのです。そして時の流れは一直線に進むのではなく、メビウスの輪の如く元に戻っていくのです。

時の流れが過去→現在→未来と一直線に進むというのは、キリスト教的な世界観です。神が宇宙を創造し、ヘーゲルが唱えたように弁証法をもって人間社会が右肩上がりに進化し、そして黙示録の終末をもってイエスが我らを天国へと導く、という思い上がった選民思想です。

東洋の世界観はそうではなく、循環する、というものです。これは易経の六十四卦のみならず、インド発祥の輪廻思想においても然りなのです。

そしてこの思想は東洋の専売特許ではなく、古代ギリシャにおいても同様であったのです。現代の私たちは、中世からずっと揉まれ続けてきたキリスト教的な世界観に毒され過ぎているのです。

キリスト教的な世界観を全否定することを奨励するわけでは決してなく、それ以外の世界観を知ることによって、そうして初めて中庸を得ることが出来る、と言いたいのです。

今、この科学万能の時代に、私たちが易経を初めとする東洋思想を学ぶ意義は、そこにあるのです。

4.彖伝

彖に曰く、未済は亨るは、柔、中を得ればなり。小狐汔ど済らんとすとは、未だ中(なか)を出でざるなり。其の尾を濡らす、利しき攸无しとは、続きて終わらざるなり。位に当らずと雖も、剛柔応ずるなり。

未済は亨るは、柔、中を得ればなり。この一節は、六五が中位を得ていることを表しています。未済の時であるからこそ、剛強一辺倒で難局を乗り越えようとするのではなく、むしろ陰柔なる徳をもって事に当たれば亨るであろう、ということです。

小狐汔ど済らんとすとは、未だ中(なか)を出でざるなり。子狐は、坎卦の穴の中にはまっているのです。これが未済である所以ですが、これは六十四卦全てを包括する卦でもあり、このような中途半端な解釈をもって終わるほど浅はかなものではないのです。

其の尾を濡らす、利しき攸无しとは、続きて終わらざるなり。この子狐は、軽挙妄動にして、後先考えずに物事を進めようとし、これぐらいの川であれば容易く渡れるであろう、と勘違いして渡り始めて、途中で尾を濡らして力尽きてしまったのです。格好よくして物語を終わらせることは出来なかったのです。

位に当らずと雖も、剛柔応ずるなり。しかし上述の通り、六爻は全て不正位ではありますが、応じており、比しているのです。未完成に過ぎるということは、言い方を変えれば、完成へと至るプロセス、という名の喜びがあるということです。この物語は、終わりではないのです。続きがあるのです。この子狐は、失敗の経験を活かして、これから先もずっと成長し続け、やがては子を産み、その子はまた同じ失敗を繰り返して、そうして延々と同じ物語が続いていくのです。

ヘーゲルそしてマルクスの弁証法的世界観は、余りにも浅ましく、そして薄っぺらいのです。私たちは、ただひたすら延々と同じことを繰り返しているだけであり、そこに喜び、そして美学を見出すべきなのです。

5.象伝

象に曰く、火、水の上に有るは未済なり。君子以て慎みて物を弁じ方(ほう)に居(お)く。

火が水の上にあって、火は火の用を成さず、水は水の用を成さず、ちぐはぐな状態にあって十分な活用がなされていない形が、火水未済です。

君子はこの卦の形をみて、物事の性質を弁別し、あるべきところに置き直して用を成すのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。