ドラマ「海のはじまり」第一話を観て異常に腹が立っているという話
海のはじまり、第一話にとんでもなく腹が立っているという話。
ドラマを観ていらつくのは本当にコスパが悪いと言うか、本末転倒というか、マヌケなことなのは十分わかってるんですけど。
先ほど海のはじまり第一話を観たばかりなんですが、(具体的には観終わってからいま30分ほど経っています)
まあめちゃくちゃ怒り心頭なのでこの気持ちはメモしておかねば、と思い筆をとっているしだい。
ドラマに対してどうのこうの、ももちろんあるんですが、なぜ自分がこれほどいらつくのか、を知ることは、
自分の創作物に対する視線というか立ち位置を確認する意味でもとても大事だとおもうわけであります。
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まず怒りの芯を短く書いておくと、
人間が居ないじゃないか、
ということであります。
いや、古川琴音も目黒蓮も有村架純も大竹しのぶもいるじゃないか、人間じゃないか、という意見はあるかとおもうんですけど、
それはそうなんですが、彼らが演じているキャラクターは「いない」だろ。と。
画面の中で発狂したオブジェクトが何事かしゃべっているけれど、これはなんだろう?
終始そういう気持ちで観ていました。
順を追って話しましょう。
まず冒頭、海辺を歩く二人。
セリフが腐ってる。
「どこから?」
どこからが海なのかを母に問う子。
もうこの段階から腐臭が漂っている。
このぐらいの年齢の子どもが海を眼の前にして、どこからが海か?と問うわけがない。
眼の前にあるのが海であって、それ以上でもそれ以下でもない。
ただこれには言い訳が用意されているはずだ。
「いや、幼い子どもは時に大人がドキッとするような鋭い問いかけをするものですよ」
と。
この言い訳が本当に許しがたい。
その主張自体は納得できるしそのとおりだと思う。
幼い子のドキッとする視点、というのはわかる。
ただ、今回のオープニングはそうではない。
完全に「大人が考えて準備した『子どもの鋭い視点』を言わされている」のだ。
それはわからないじゃないか、そんなひねくれた見方をしなくてもいいじゃないか?
という人は、では、古川琴音のこのセリフをどう受け止める?
「海がどこからはじまってるか知りたいの?」
はい。
このセリフを引き出すために、海ちゃんは、「どこからが海なの?」と言わされていたのです。
ドラマのタイトルが海のはじまり。
そして、それはすなわち、海の父親は誰か、海のルーツ、海の実の父親は誰なのか?という物語であって、
そこで哀しいことに「海」という名を与えられた子どもは、物語のオープニングをウィットに富んだものにするために
「海のはじまり」「海のおわり」について疑問をもつように仕込まれているのである。
まだ開始三分。
この海辺のシーンにうかがえる作者の姿勢が、この後ずっと相似形を描いて繰り返し現れることになる。
この作り手の姿勢は私の感性とはほんとうに相容れない。
歩いていく海、そこに母が言う。
「行きたい方に行きな」
いやいやいやいやいや。
海辺をダラダラ歩いてて、「行きたい方」ってなんやねん、と。
そんな複雑怪奇な迷路じゃないっての。海沿いに散歩してるだけじゃないか。
じゃあなぜ唐突に「行きたい方」などという謎のセリフが出てくるかと言うと、当然それは、このドラマの中でいずれ訪れる「海が選択するべき時」を暗示しているのである。
つまり、母が子を観て本当に心から「行きたい方に行きな」と言ってるのではなく、物語が先にありきで、いずれ『効いてくる』だろう物語の先に向けて、伏線として置かれているセリフなんですよ。
生きたセリフでは全く無い。
このような死臭ただようセリフが第一話の全編に散りばめられている。
(いまふと思い出したのは「8年」「6歳」という単語。これは海の父が夏であるかどうかを視聴者に疑わせたり一旦否定してみたりするために配置されている)
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はっきり狂ってると思ったのは、海をかわいそう、という声にいらついた夏が「そんな声聞いちゃダメだ」と海に母親の動画を見せるシーン。
いやあ。
人としてありえなくないすか。
母が死んで、葬式の日に孤児にその死んだ母の姿を動画で見せると。
いやあ。
まったく理解できない。
夏がどういうキャラなのか、とも連動してないし、
ここで海辺で遊ぶ古川琴音の動画を見せまーす
なんで?
あとでわかるから、ひ・み・つ
みたいな。
実際その狂ったシーンのおかげで、後半「夏が好き」「海が好き」と動画でさわぐ古川琴音をみせあうというさらなる地獄への布石が打たれてしまっている。
人間の所業とは思えない。
季節としての夏が好きとさわぐのはいいが、それを自分の名前だからと涙をぬぐう目黒蓮もクレイジーだし、
海という場所が好きとさわいでるシーンが、実際娘に「海」と名付けたことによって『効いて』きてしまうのである。
まじで、子どもの名前は感動のための道具じゃねえんだぞ、と。
そういうクレイジーな展開のなかで時代は大学生活に飛び、
「中絶」
というショッキングな話題へとはいっていく。
中絶の話題を出すこと、物語に絡めることは別に問題は無いと思うし、実際に学生のうちに妊娠してしまってどうしたらいいんだろ、という人もいることはわかります。
許しがたいのは、古川琴音の態度である。
紙をぱっと出して、気軽な調子で
「サインして」
と。
だめです。これは、あのですね。
この態度自体の話じゃないです。
『こういうシーンを創造すること』が駄目です。
なぜダメか、というと、やはりOPと同じで。生きてないから。この古川琴音は人間じゃないから。
別にリアリティとかそういう話じゃない。
このシーンには何重にも意味があって、効果があって、めちゃくちゃ嫌な言い方をすれば、お腹の赤ちゃんがドラマのための道具にされちゃってるのです。
もちろん、フィクションだから、「そんな赤ちゃんは実際にはいねえよ」というのかも知れませんが、私はドラマの登場人物を血が通った人として観るので、
腹の赤子を産むか産まないか、というのはマジで実際の話なんです。
で。
この古川琴音の「ポイッ」っと何のひっかかりもないように出される紙。
このシーンは第一義的には
「男と女を逆転したらこんだけひどいことを男はやってるんやで」
ということを男に突きつけるために書かれている。
当たり前の話だが、男は腹に子を宿せない。
女は腹に子を宿す。
したがって、中絶するかしないか、産むか産まないか、というジャッジにたいして、女性の方が圧倒的にリスクをとり、責任をとり、真剣に悩み、多くを負担することになる。
それはそのとおりである。
しかし、だからといって、子を産むことに対して女性が上位で、男性は種を提供してるだけのゴミ、というのは明らかにいびつな見方だろう。
まあこのドラマは、特に女性が偉い、と言おうとしているわけではなく、そこが問題なんじゃない。
問題は、
これまで一般的に描かれてきた→「何のためらいもなく『堕ろしてよ』と言ってくるクズ男」を男女の視点を逆転させることによって古川琴音に演じさせ
「へえ、男性諸君はこれに怒りを覚えるの? でもこれまで男がやってきたことってこういうことだからね」
という逆エビ固めを仕掛け、ワナをはっていることにある。
別に、心の底から男性性を憎んで、世の男全員を地獄へ落としてやろう、と思っているのならわからなくもないが、
そんなわけではないだろう。
そういう呪いのエネルギーは無いのに、形として男に巨大な呪いをかけているのが本当に嫌だ。
「プロミシング・ヤング・ウーマン」という映画は、本当に男性を呪い殺してやる、という怨念に満ちた作品で、
クズ男どもを片っ端から潰していく話だったわけですが、ああいうのはわかります。
その是非はともかく、怒りと怨念が根底にあることがわかるから。
今回のこの作品にはそのようなパワーは全く感じられない。
「うわべ」のショックのために「腹の子をいともかんたんに堕ろそうとする母」という画を観せている。
そして、このシーンのやばいところはもう一個あって、
目黒蓮が父親ではないことを含ませる、ということにある。
まず古川琴音がここまでクレイジーな提案(堕ろすからサインしてね!)ができる背景を考えた場合、
すぐに思いつくのは「誰か別の父親の子を宿し、堕ろさざるを得ない」という事情だろう。
これは愛する相手以外の子を身ごもってしまった場合、なにかメンタルがごそっとズレてこうなることは考えられなくもない。
実際の話、中学生同士、とかならわかるんですが、大学生同士で妊娠して相手に相談ゼロで「堕ろすしか無い」ってどういうことか、かなり謎。
大学に通ってる時点で極貧ではないだろうし、古川琴音が徹底的にメンタルを病んでる、あるいは薬物などで狂ってる、という描写も無い以上、
ふつうのカップルができちゃたら、産むか産まないか話し合うだろうし、さて結婚するか、どうするか、みたいなそういうところに話が行くのが筋じゃないんだろうか。
ということで、ノーマルなライン(目黒蓮の子である)がなかなか成立しにくく、
であるならば、このドラマは、「海の父親は誰なのか」というところに向かっていくと考えるのが普通だろう。
そうするとこの古川琴音はめちゃくちゃわかりやすく
「夏を愛するが故に、他人との子を育てさせる分けに行かないので、自分がピエロになって夏から離れていく選択をした」
ということなんじゃないだろうか。
そういうパターンだとしても、やはり腹の子の堕ろす堕ろさないは道具として機能してしまっている。
それが本当に不愉快である。
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結局堕ろすことなく産まれた子。
そして電話で「もっと好きな人ができた」と。。。
ああ、このセリフも発狂してる。
我が子を産み、夏ではなく海と生きていく、という選択を、こんな当てこすりのようにしゃべるだろうか?
すべてのセリフが機能のために書かれていて、そこに血の通った人間がいると思えないんですよ。
第一話終わり際、死んだ古川琴音が動画で、夏が好きー、海が好きー、あーだこうだ。
そしてラストは、海のセリフで終わる、
「夏くんのパパ、いつはじまるの?」
そんなセリフがこの世にあるわけ無いだろ。
言わされている海が本当にかわいそう。
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海は産みにつながり、
海のはじまりとは彼女がこの世に生をうけたルーツである。
そういう「どや、いろいろ絡めてておしゃれでっしゃろ」という技巧、技術、機能、そういうもののためにキャラが消費されているのが本当に嫌いなんだな、と改めて思う次第です。
明日2話が放映されるんですが、観るのかなあ。
どうしようかな。
観ていらつくのはコスパ悪いもんな。
お肌にあわないのなら、触れてあーだこーださわぐのは大人げないよな。
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あ、そうだ。
これだけいらつくのは、このドラマが真面目に作られているからです。
手を抜いたりふざけたりしてこうなっているのであれば、やれやれ、と鼻で笑って終わらせられる話です。
サイレント、についてもめちゃくちゃいらついたんで、おそらくこの作者の根っこの部分と本当に相容れないんだとは思います。
技術のある人が、めちゃくちゃ真剣に創造したドラマだからからこそ、マジで腹立たしいんだろうな、と自己分析しております。
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追記。
私は孤児のお話が本当に刺さるたちで、孤児が出てきただけで100点中63点ぐらいは無条件でつけちゃうぐらいな私なんですが、
その私がこれだけいらつくとは、やっぱこの女の子は孤児じゃ無いんだと思う。
物語の都合上で準備された駒にみえてしまう。
母を亡くした娘が一人で知らんおっさんのとこに訪ねていかないだろ。
そういう死体感、呼吸してない物体感。
芦田愛菜が「クリームソーダ」が好きなのはほんとうだったし、生きていたわけだし、渡り鳥をみて「わたしも連れて行って」と本当に思ってたはずなんですが、
どうもこの海ちゃんは終始生きた人間に思えません。
これは演技力の話ではなく、キャラの愛し方の違いだと思う。
坂元裕二と生方美久は根本的にぜんぜん違う方向性をもった作家のように思えてならない。