寿司にホイップクリームを乗せ、幸せが何たるかを知る
幸せは人の数だけある。最愛の人と一緒に過ごすだとか、趣味に没頭するだとか、仕事で何かを成し遂げるだとか。各々が幸せを見つけ、それを実感し噛み締めることで、私たちは生きていくことができる。
幸せは目標と同じであり、掴むことが困難であればあるほど、実感するそれはひとしおだろう。しかし、そのハードルを高く見積もってしまえば、私たちは幸せを感じることなく、不満を抱えて生きるはめになるかもしれない。
身の丈に合ったほどほどの幸せを見つけることが、生きにくい世の中を生きやすくするための、処世術だと存ずる。
私が一番の幸せは何かと問われれば、「美味しいものを食べること」と答えるようにしている。結局美味いものを食うのが一番いい。
自慢ではないが、私の舌は異常なほど馬鹿である。甘辛くさえしてくれればそれだけでいい。この世に醤油とみりんと砂糖があって本当によかった。
勿論甘辛くなくとも、酢っぱいのも好きだし、しょっぱいのも辛いのも好きだ。タイで食べたサソリも美味かったし、新宿で食べた羊の脳みそも美味かった。先ほどの発言を撤回する。甘辛くなくともよい。四本足であれば何でも美味い。
もはや、何かを口に入れるだけで幸せを感じている。
ただ、少し不安に思っていることがあった。冒頭で偉そうに「ほどほど」を語ったが、本当に、こんなに簡単に幸せを感じてしまっていいのか。
マズローの欲求階層の一番下に位置する、生理的欲求さえ満たすことができれば私は幸せの絶頂に達し、そしてそれは日に何度も行われる。
今日の日本ではそれが満たされないことの方が難しいのに、私はこの幸せに満足している。
馬鹿舌が本当の幸せを掴み取る努力を妨害する、大きな障害になっている可能性が大いにあった。にもかかわらず、私の著しく偏差値の低い舌は留まることを知らない。私の悩みなんて知らんぷり、舌は今も酢昆布とカフェオレを撫でて喜んでいる。
このままじゃ駄目だ。一度この馬鹿舌に、お灸をすえる必要がある。
方法は一つ。「不味い」をしっかりと実感させることだ。さすれば、今まで食べてきたものに対しても、「不味い」を感じることができるようになるかもしれない。そして「不味い」さえ解れば、私は簡単に幸せを感じなくなり、新たな幸せを求めるようになるはずだ。
本当の幸せを見つけるためなら、私はこの幸せを喜んで捨てよう。
そう思うや否や、私はすぐにスーパー・マーケットへと駆け込み、寿司とホイップクリームを買った。
半額の寿司にたっぷりとクリームをのせて、醤油をつけて食う。
これならきっと、何も考えず受け入れてきた私の舌も拒絶反応を起こすに違いない。
私は恐る恐るそれを箸で持ち上げた。半日以上店頭に置かれた生臭いハマチと、甘ったるいクリームの織りなすマリアージュが鼻につく。
これはだめかもしれない。脳が、人の食べるものではないと警告を鳴らしている。植物性の安いクリームから、小さな気泡がしゅわしゅわと割れる音が聴こえる。思わず嘔吐反射が起き、胃から酸っぱいものがこみ上げる。
両目から涙が滲み出るのを、我慢できない。
本当に、心の奥底から、なんでこんなことをしているんだと思った。
いや、気を確かに持たなければ。これは私の、私による、私のための折檻である。ここでやめては意味が無い。
ふうう。私は息を大きく吐き、それを口に入れた。
咀嚼、咀嚼、咀嚼。歯から伝達され、全身の骨まで軋む感覚がする。
味は悪くなかった。何なら、結構美味い。
何故なんだ。私は舌を動かし分析する。
クリームと醤油が上手いこと合わさり、みたらしのような味がした。それに魚が合わさるとどうなるか。もう殆ど、鰻の蒲焼である。シャリも相まって、私は今うな重を食べているのとなんら変わりない。
なんだ、うな重か。舌がそう思ってからは早かった。
はっと我に返り皿を見ると、全てなくなっている。遅れて、満腹感と幸福感が押し寄せた。
いいじゃん、クリーム寿司。なんの参考にもならないかもしれないが、エビが一番美味かった。
しかし、どれだけ私の舌は馬鹿なのだろう。絶望、いや、舌望した。身体は少しずつ太り始めているのに、対して舌だけはガリガリに痩せこけ、何もかもを渇望している。
全く、クリーム寿司で美味いなら、いったいどんな組み合わせだったら不味いと感じられるというのだ。つい溜息が出る。ふう。また何かしら考えないと。
私の「不味い」を探す旅はまだまだ続く。果たして、舌が「肥え」る日はいつか訪れるのだろうか。