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皿洗い、だーいっきらい!

 もう10年近く一人暮らしをしている。独り身の私は今の今までずっと一人で家事を行ってきた。スキルは既に初心者を超え、楽しみながら家事に勤しんでいる自信がある。しかし一つだけ、たった一つだけとんでもなく鬱陶しくて憎たらしい家事が存在する。それは皿洗いだ。
断っておくと、この日記の中に皿洗いの面倒臭さを取り除くための解決法はない。というか、この世界にそんな画期的な解決法なんてきっと無い。これまでもこれからも、全人類は皿洗いに苦しみ続ける。この日記はアンチ皿洗いの小さな嘆きである。

 皿洗い。それは現世における最大の罰。仏は祖先たちの悪行をこれでもかと詰め合わせたギフト(罪)を私に償わせる気なのか。そう思えてならない。
 何故私たち(勝手に全人類がそうだと思っている)は皿洗いが嫌いなのか。
 スポンジに洗剤を垂らし、泡立たせて皿に擦り付ける。そしてさっとお湯で濯ぐ。たったそれだけの行為を、どうしてもやる気にならない。その証拠に、今も流し場には大量の食器がそのまま放置されている。いや、違うな。放置している。
「私、汚れちゃったね」
 そう言って涙を零す皿を、私は「ふーん」と興味なさげに無視している。
 料理は好きだし、洗濯も苦じゃない。掃除もそこそこ。でも、皿洗いは嫌い。一体何故なのか。
 私なりに考えた結果としてだが、それには二つの原因がある。

その一つは、「その先にご褒美がない」ことである。
 料理の先には美味しいご飯が食べられるというご褒美がある。だから飽きもせずもやしの髭を毟り取り、キャベツをリズムよくザクザクと千切りする。その一つ一つの細々とした面倒臭い行為がご褒美の質を高める作業と化すわけである。だからこそ、料理自体も楽しくなる。
 洗濯も同様に、その先にはお気に入りの服を着てお出かけできるというご褒美がある。干している時も、アイロンをかけている時も「この勝負服で会うの楽しみだなあ」とデートする相手を想像したり(私にそんな経験は露ほどもないが)、「よし! 明日のライブはこれ着ていこう」とか、近い未来を考えると洗濯中も楽しい気持ちになれる。
 掃除も例外ではない。これは全ての人間に当てはまるわけではないが、サボりがちの私は来客がある直前に掃除することが多い。だから、「このあと好きな人が来ること」がご褒美になるわけだ。
 なのに! それなのに! 皿洗いにはご褒美なんて何にもない! つらいだけ! 
 皿洗いしてスッキリするとかもない。だって終わった後はただ食器かごに雑多に皿が積まれてるだけだもん。あんなものを見てスッキリしたとか言えるやばいやつはきっと、ダンサーインザダークやミッドサマーを観た後も「いやあ、スッキリしたねー!」とか言うに違いない。多分。
 以前これをやばいやつに話した際、とんでもないことを言い返してきた。「じゃあケーキとか用意して自分でご褒美作ればいいじゃん」と。
 はあ…… こいつは何もわかっていない。私はため息を漏らした。
 ここまで私が力説してきたご褒美というものは「それに付随して家事自体が楽しくなるご褒美」であり、密接に繋がっている。一方でこの愚者が提案したご褒美は、取ってつけたようなものであり、文字通り家事と断絶している。つまり、「これが終わったらケーキが待ってるけど、この作業は嫌だなあ」となってしまう時点で他の家事とは一線を画しているのだ。作業自体も楽しくならなければ意味がない。
 それにケーキを食べたらまた皿やフォーク、ティーカップを洗わなくてはいけないわけで、そうなるとケーキというご褒美を食べている間もずっと、「この後皿洗いが待ってるんだよなあ」と嫌な気分になる。ということは、ケーキ後の皿洗いが「それに付随してご褒美自体が苦痛になる家事」になるのだ。本末転倒も甚だしい。
 話がややこしくなってきたが、つまり何が言いたいのかというと、皿洗いはクソだ。終わってる。

 もう一つの理由。それは単純に「不快」だからである。
 なんで使った皿ってあんなに汚く見えるんだろう。油でテカテカしていて、茶色だったり、黒っぽかったり。こう字面だけみるとゴキブリだ。ゴキブリを素手で綺麗にする作業だ。正気の沙汰じゃない。
 それに魚の骨だとか小ネギだとかが残ってたりする。小さいビニール袋を用意して、そこに捨ててからでないと皿洗いを始められない。
 生ごみの処理をして、ヘドロのようなヌメヌメを触って綺麗にする。そんな不快さは他にはない。料理は口にするものなだけあって汚くないし、洗濯は言わずもがな。掃除だってきょうび直接不潔な部分を触るなんてことはない。そんな前時代的な工程が存在するのは皿洗いだけだ。
 それと書いていて思ったのだが、常に手が濡れているせいでスマホの操作ができない。それも良くない。
 私は家事をしている間はラジオを聴いているのだが、皿洗い中はCMをとばしたり違う番組に変更したりできない。いちいち手を洗い、蛇口を捻って水を止め、手を拭き、スマホを操作して、また蛇口を捻り、皿洗いを再開する。なんだこれ。工数の多さにもはや笑うしかない。

 以上が何故皿洗いが苦痛であるかの説明でした。
 さて、もうそろそろこれを読んでいる人(読んでいる余程の物好きがいればの話だが)の頭には疑問が浮かんできている頃だろう。
 それはもちろん、「なぜこの人は食洗機を買わないの?」という疑問だ。
 食洗機。それは文明の利器であり、皿洗い嫌いの全てを救うためだけに作られた救世主。救いの手。阿弥陀仏も裸足で逃げ出すほどの救出力を持ちうる神。かと思われた。
 しかし、食洗機は決して万能ではないのだ。恐ろしいほど大きな欠陥がある。あれは、皿洗いを全くやらずに済むためのものではない。「皿洗いの量を減らす」ためのものである。
 実際私は、一つ前に住んでいたマンションに食洗機が標準装備されていた。初めての食洗機に興奮し、涙し、感謝した。しかし最初こそ使っていたものの、途中から使わなくなった。
 フライパンや鍋は入らない。デリケートなグラスは入れてはならない。生ごみの処理は結局しなくてはならない。しつこい汚れがある場合は先に濯いでおかなければならない。そういった制限が多いのだ。うーん、それって普通に皿洗いするのと同じくらい面倒臭くない?
 整理すると、普通に皿洗いをする場合は
 ①生ごみの処理 ②洗う
 という工程のところを、そこに食洗機を挟むと、
 ①生ごみの処理 ②食洗機に入るか否かを選定 ③汚れている皿を濯ぐ ④食洗機の中に並べる ⑤タンクに水を入れる(水道直結の場合省略化) ⑥入らなかったものを洗う
 となる。
 あれ、余計面倒な気がしてきたぞ。食洗機なんて所詮は偶像だった。
 それに怠惰な私にとって、皿洗いは洗うか洗わないか。その二択だけだ。量なんてさほど問題じゃない。というわけで、我が家の食洗機導入は先送りされた。全ての食器が洗える食洗機が発売されることを切に願う。

 先日友人に皿洗いについて愚痴をこぼすと、こんなことを言われた。
「紙の皿を使えばいいんじゃない?」
 なるほど。そうすれば洗わずにそのまま捨てることができる。まさに神は紙だったわけだ。早速次の日、私は紙皿を100円ショップで買って試してみた。
 しかし、それもダメだった。紙皿を捨てる瞬間に嫌な気持ちになった。
 二十代の私は幼い頃からやれ「地球温暖化が進行している」だの、「地球に優しく」だのと訴えられてきた世代だ。そして今はSDGsがなんやらと叫ばれている時代。そんな私が一回使っただけの紙皿をゴミ箱に捨てる? それも毎日? 牛のゲップと私、どっちの方が地球を汚染してる?
 無理だ。そんなことはできない。私の我儘で地球を汚すなど言語道断だ。人格形成が行われている真っ只中に、「地球に優しく」と口すっぱくなるほど聞かされた私の身体にはどうやら、心臓や腎臓の他に「エコ臓」みたいなものがついているようだ。エコのために生きているかどうか判断し、もし違えば拒絶反応を起こす厄介な器官。
 別に洗剤もたくさん使うし、皿洗い中もお湯を出しっぱにしているから全然エコではないのだが、目に見える地球汚染は心が痛む。世間のエコ風に吹かれて、エコ蔵に身体を支配された私は、紙皿を捨てられないほどエコ汚染しているのだ。エコで汚れ、涙ぐむ私を誰かに洗って欲しい。世間はきっと、「ふーん」と興味なさげに無視を決め込むだろうけど。

 とかく述べてきたが、結局私は皿洗いが嫌いすぎるということだ。令和に生きる人間がやることじゃない。本当に時間の無駄。意味がない。今がローマ帝国なら私はとっくの昔に奴隷にやらせている。そしてキケロやルクレティウス、なんならカントも驚く哲学を説くだろう。タイトルは「純粋皿洗い批判」だ。
 


 
 
 
 
 
 

こんなところで使うお金があるなら美味しいコーヒーでも飲んでくださいね