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“いま”は“いのち”、

町は生きている。
人が生きるようにして、お店も、町も生きている。

2018年末、ここ内野町の老舗が一つ幕を閉じた。ひっそりと。
僕はこのマルカク醸造の分家の孫で、じいちゃん(86歳)はついこの間まで醸造を担当していた。

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(2018年末で味噌・醤油の醸造を終了。
年明けからは昔ながらの製法の味噌漬けや豆や昆布の販売のみ行っている。)

すべて国産の原料で、木桶で仕込む味噌は全国生産の中でも数パーセントだった。

後継ぎの問題や、時代のニーズによって老舗が閉まる。
この様々な地域で起こる事実に対して、まずは“寂しさ”という感情がある。
何か当たり前にそこにあったモノゴトが無くなってしまうときには、いつも片腕をもがれたような気持ちになる。

醸造蔵を残せれば、製法を残せるのではないか(この残したいという感情はどこからくるんだろうね)。近所の店主さんからも「あなたが継げないのか?」と聞かれたこともあったが、分家の孫にはそんなことを決める権限はないし。そもそも、この“生業を受け継ぐ。”ということは、代表のおじちゃんの人間関係や人生を受け継ぐということで、いわゆる「株式会社」のように仕組み化されていないものは、たとえ身内であってもパパッと継承できるものではないのだと思う。

しかし今回は一つの言葉にたどり着いて気持ちがとても楽になった。
“役目を終える。”という言葉だった。

■生業も役目を終える。

人が生き、人が死んでいくように生業も役目を終える。
ウチノ食堂も一つ役目を終えた気がしたし、同時に一つ役目を得たような気もする。

「株式会社」というものは、法のもとに人格を持ちながら、仕事を高度に分業・組織化し、永続することを前提に利益を追い続ける。
良い事業が利益をあげながら継続することはとても大切なことだと思っているけれど、人の手に付き「高度に分業・組織化」することができない生業に「永続する」ことを無理に求めるのは自然に反することなのではないかとも思う。(もちろん手仕事の技術を次につなげることは大切。)

だから生業が役目を終え消えていくことは、失うこととは違い、とても自然なことなのかもしれないと、今は思う。

後継ぎの問題や、時代のニーズによって老舗が閉まる。
これはどの地域でも起こっている事実だ。確かに寂しい。
しかし一人の人間の命には限りがある以上、一つの生業にも寿命がある。

だから全力で生きてきた人には、寂しさよりも感謝を伝えよう。
本当にお疲れ様でした。

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■それでも僕らは生きていかねば

じゃあ、生業は消えていくしかないのか?

そうでもないと思う。
生きるということは、「どこで・誰と・何をして」という“時間”の積み重ねと、そこに残る“記憶”。そしてそこから始まる「次は何をしよう」という小さな“意思”、この連続なのだと思っている。だから、何かをしようと・始めようとする意思を持った人が現れる限りは、生業は“意志”となって受け継がれ、人の中に生き続けることができる。だから“意志”が続くことが、町が生き続けることなんだと思う。

その人から生業を継いだり、次の世代につなぐということは、時間をかけて共に生きることで、技術以外の“その人の在り方”のようなものも共に受け継ぐことなのかもしれない。

事業の一代は30年くらいの話で、代替わりして事業内容が変更になることはよくある。老舗ほど事業内容はコロコロ変わっている。
しかし、内容が変わったとしても、そこには先代の在り方のようなものが残っているような気がする。そして、商店街の中で生きていると、近所の職人や商売人の在り方はともに影響し合っていることを感じる。

内容(do)は、時代のニーズやテクノロジー、いま生きる人の感性で変化する。
在り方(be)は、時代が変わっても受け継いでいける普遍的なものだ。

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(そういえば、200年前に川を掘削(DIY)する過程で発展した内野町は、なんでも寄り集まってDIYしてしまう気風がないでもない。)

■大切なものを大切にする。

ウチノ食堂は、身近な周りにあるモノゴトでできている。

お店ができるまでの改装には、近くから遠くからたくさんの人が参加してくれて、身近な古材も取り入れ老舗の魚屋さんを食堂にリノベーションした。塗りつぶし作り変えるのではなく、地域の文脈を組みながらそこにあった空き店舗に意味を与えた。

お店が始まってからは、できるだけ身近にココにある食材を使ってきた。町にいる職人がつくる食材や、この土地で当たり前に収穫される季節の野菜。関係性のある地域で採れたモノなど。

人もそう。自然に、ここに来る人と何ができるかを考える。客層のターゲットは決めない。広告も打たない。それでも自然とここを居心地が良いと思う人と、これからも何が育てられるかを考えていければ良いと思う。

【店というコクーンを育てる。】
https://note.mu/noronn/n/na5dc0a4b93c0

自然と集まった種が、自然と芽を出すときには、自然としなやかな関係性がそこにはある気がする。

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大切なものを大切にする。”という、TEDの動画がある。自分の大きな振り返りの度に、これを観るといつもハッとさせられてきた。

ハッとはしてきたものの、今回の「マルカクの閉店」という事実を前にして、やっと自分の中に落ちてきたような気がする。これまでやってきた身近にあるモノを生かすことや、関係性の中でコトを生んできた過程こそが“大切なものを大切にする。”ということで、そのままウチノ食堂が在る理由なんだろう。

自分にとって大切なモノゴトを、大切にする。
ここだから来てくれる人がいるし、そうでない人ももちろんいる。きっとここでしかできないこともあるし、そうでないこともある。大切なものは、増えることもあるし、減ることもある。そういった変化の中で、今できることを積み重ねていく。

この一年くらい、自分の中で『地域の持続性:何を持って持続とするか』という問いがあって、今のところの答えは「“時間”と“記憶”、“意思”による“意志”」なんだろう。それは特別なことではなく、日常の積み重ねのなかにあるような気がする。

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ここまでの話は身近な老舗が閉店するに際しての雑記であって、“まちづくり”や、“地域活性化・地域づくり・町おこし”といった話ではない。そんな大きな枠で作られた言葉よりも前に、重ね重ねだが地域には日常がある。この雑記はごくごく当たり前につづく自分の、個人の暮らしの話。

人が生きるようにして、“いま”を積み重ねながら、町も生きている。

そう、だから“生きている町”に住んでいたいんだろうね。
だから明日も米を炊こう。

ウチノ食堂 店主

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