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22 天女の服

 天の神聖に対する無垢なる人間の最初の罪深き叛逆、
やがて空想フィクションなる地上世界を、緋く泡立つまで、底から
掻き雑ぜることになる、宿命の、筋書きの冒頭
ああ、何と悲しき存在か。その身をもって、人間の悲哀を
孤独と、無秩序な運命を、神と隔たる無限の壁を、
かつては永遠の果実とされた空気を、苦いものにしてまで、
甘いものを求めて生きる現存在の悲哀の物語を、
世俗の詩聖に歌えなかった歌の姿を、
彼は一人その身に背負って、足を挫きながら演じるのである
イロニー的存在たる彼は、夕陽を望みつつ問うた

「ああ、叡智なる獅子よ、古代の墓を守りし大いなる知恵者よ、
我に教え給え、我は現今、比類なき麗しさをもつ
一人の少女を求めている。ああ、美しいことをなぜ
求めずにいられよう、汝にも、言葉にせずとも理解
されよう。これは宿命なのだ。若きものの闘争なのだ」

叡智なる獅子は眠気なるまなこをつと上げて
「なにゆえ、やにわにもそのような事を望む、汝の意図
はいかに」と答うれば、「願わくば、美しき乙女を!
我はその事をもってして一人前たりえる」
「いまだその意図は掴めないが、教えるに忍びない、
明日早朝、神殿の裏に湛える聖なる泉のそばで身を
潜めて静かに待つのだ。そこは天与の泉、やがて陽の昇り
とともに天女が降り立ち、水遊びをなさるだろう、お前の
望む華麗で無垢な少女が観られるに違いない」と、

少年アイは巨大な獅子の頭に座して聞いたが、飛び降り、
感謝の言葉と手を振って、立ち去った。丘の向こうに
少年が沈むと、獅子はやがて平生の如く、目を瞑り、
時が流れるのを肌身に感じながらその場に存在いま
高潔な孤独を、味わった。

 さて詩神よ、語り給え、なぜ彼は斯様な願いを頼んだのか
それは、時間を遡る、まだ日の高い頃、アイと共に村の用水路
にて釣りに興じていた村の青年ジェニファーは、ふと
後ろを通りがかったうら若き少女に手を振った、その少女
は彼の両思い女なのである。「貴様には俺のような選ばれし
者になることは叶わないだろう。貴様はいまだ餓鬼んちょ。
一人前には程遠い」少年アイ反論するも、ただ、「いな、
貴様には遠い世界だ。なお、たとえ思い女が出来たとしても、
俺のように美人な恋人はありつけない、せいぜいタニシの
女神かそれ以下の者、土の上をのたくっているクズ虫とでも
手を繋ぐ方が似合っている」と返される。軽蔑を受けたアイも
黙してはいられず嘗てのように「そうかなあ。えへへ」と
笑って看過する子どもではすでになかった。年ごろのアイは、
しかし愚かしい思考のなすままにすぐさまタニシの女神を訪ねて
「恋人になってほしい」と告げるが「悪いけど、あたし
そういうの興味ないから」と人懐きがよく、心の壁を持たない
彼女ですら取り付く島もない。「可愛い女を連れて
歩いたら一人前、そう決まってんだ」ジェニファーの言葉が、
脳に再生される。誰よりも強くなりたいアイ。民衆を救う人間に
なりたいとかねてより思っていた彼は、一刻も早く一人前に
ならないといけないのだ

 少年アイはまだ宵の刻、鶏の鳴き声によって目を覚ました。
気もそぞろなまま、鉛の如く感ずる朝食のうどんを腹に落として、
出発する、平生と比べ珍しく清潔な服を選んだ、途中、ワルワルの
女神と行き交い、彼女の仕事熱心を知り、深く感じ入る。パン屋が
目覚めるより早く彼女は町や村を巡って、人の安心を見回っていたのだ
さてアイは天性の働き者に早起きを褒められた末に、彼女に
——場所を去る意味でと昨日の自分とは異なる自分になる意味での——
密かな心の別れを言って、順調に山向こうの神殿の裏へ進む健脚を発揮する

 神殿は秋の夜より長いとされる遠大なる右川をその水湧盛んな
上流までさかのぼり、山に入り奥へと分入った先にある、琥珀こはく
の飛沫が川沿いの草を濡らす、豊穣な土はその柔らかな背中を胎動させ
涼しい風に対応する健康な熱気と蒸れを染み込ませる。神殿の裏側に
泉があるのを見つけたアイは、泉が見える草むらに身を隠した。
ああ、その泉の妙なること天籟てんらい麗しく
草の音色を鮮やかに彩り、透明な水面の明鏡止水は
童女の瞳の如く潤い輝き、水龍の棲家に例えられよう。
すな白く朝靄あさもやに輝き、風に波紋を
つくる。そのすべてが朝の光輝に匂い、胸を晴れさせ、頭を洗浄
するほど、まさにこの世の神秘であった。眠気と覚醒に脳が
二つになってしまった気分でアイは朝を過ごした。

 そして朝日が葉を照らしはじめた、泉の上から一筋の
光の柱が降りてきたかと思うと、その柱は泉の中心に収まり
瞬きした後には、泉に三人のすらりとした天女が遊んでいた
上世界の住人の御稜威みいつを纏った天女は、その水面に反射うつ
姿でさえ光輝に満ち、たった今まで輝いていた自然の明媚な
景色が途端に霞んでしまったようにすら感じられた、
比類なき存在、魚は沈み雁は落ちる、三人揃って
目の保養であることは明らかで、草陰に潜みし少年は、口腔に涎を
溜め、ただ眺むるに精一杯、やがてその遊戯に見惚れ自我を忘却し、
我も彼も無い空間にいるように感じた、一体匂う空気までが甘く感じた

ああ、かつて天女にこれほど咫尺しせきしたものがあったろうか!
そして、それが許されることがあるだろうか! そればかりではない、
こともあろうか、彼はその幻想に手を入れた。神威に
彼はその愚かでイロニッシュな生肌を差し入れたのだ!
アイは泉で遊ぶ天女に気づかれないよう、忍足で場所を
移り、枝の上にかかった一人の天女の天衣無縫の
衣服を掴むと、音もなくするりと抜き取った
彼は胸いっぱいに風のように黄金で、奇跡のように透明な
その衣装を抱き抱えて、顔を埋めて、
大きく息を吸った。ああ、この世ではあり得ない香気
濡れていて、冷えていて、抵抗がなく、
電磁のように明らかで、太陽のように膨らむ
抑えようのない全ての情動と感動がアイの
体の歯車をぐるぐると力強く回し、気がつくと、
森から音がなくなっていた。アイは、気がついて
泉の方へ目をやった。そこに天女はいなかった。
一人の素朴な少女がその輪郭を震わせていた
泉の真ん中で膝まで濡らし、天を見上げて、泣いていた。

宮居みやいに幽閉されしかつて高潔であった
御霊の、淋しき涙。混沌を覆いてその上に静かに座し
その混沌を孕ませ給いし大いなる者、混沌そのものと
同一視され、混沌と混沌の間で本当の感情を
コントロールせし者が、全ての歯車と小石を
設置すると同時に古本から得た知見とたんなる
気まぐれに定めた法によって、この非業な処女の
運命はいままさに、かつての冒険者とは別の罪
によって下界へと存在を決定することとなった
遠い天には今まさに雲上に消えようとする天女が
小さくなっていた。

 罪深き少年は怯懦に震え、持ち前の勇気を奮い
右往左往しながらようやく泉に現れ手にした衣服を
天女に差し出した。かつて麗しき天女はその身から
煙とも水蒸気とも取れない白い霞を出し、見るまに
するすると音を立て縮んでいるようだった。天女は
ついには五歳にもならない童女となった、天女は
恐る目でアイを見つめた、その目は何も知らない
その目は何もできない、その目は純真で悲惨な目
「ごめんなさい。こうなるとは知らなかったんだ」
 アイは謝った、天女は何も理解できないで、
そのまま佇んでいた。そしてその目にふくよかな
涙しずくをためると、大きな声をあげて泣き出して
しまったのだった、アイは慌ててあやした。
 どうすればいいかわからなくなり、疲れて
泣き止むのを待った。昼を過ぎた頃、彼は天女
を連れてライオンのに意見を聞きに行った。ライオン
は天女を見て唸った。「もうこうなったら、仕様が無い、
ワールドザワールドの女神に頼りなさい」と宣ったのである
 アイはワルワルの女神の部屋へいき、事情を説明した。
「ええ、当然、そなたににその子の面倒を任せるのなんて
到底できない。私の耳に図書館の女神が、最近時間があると
届いている。アイよ、その子を図書館の女神のところへ
連れていきなさい。彼女こそきちんと責任をもってその子を
育て上げられるわ」アイは初めて図書館という言葉を聞いた、
それ自体も場所も知らなかったが、ワルワルの女神に
行き道を教えてもらい、童女を連れて向かった。

 図書館はキヨミズよりさらに北西に位置する山中の麓にある
眼鏡をかけ、大人しい色合いの服を着た静かな女性が図書館の女神である
「了解、わたしに任せていただければ、大丈夫よ。
でもね、こういうことは気をつけてね」「うん」
アイは図書館を見せてもらった。
「すごいやここ。ここって何をするところなの?」
喉元すぎて罪を忘れたアイの明るい声は天井の高い
情報空間によく響いた。「過去を知るところよ。
あるいは未来をね」「クァシンが喜びそうだね。
僕はわからない。未来なんて知りたくないからね」
巨大樹へ帰ると、ワールドザワールドの女神が待っていた。
少年は彼女に質問をした。「ねえ、アイってまだ半人前かな」
「でもね、アイ。今日の出来事を忘れちゃダメよ。
このことがどう言うことか後になったらわかってくるからね」
それからアイに布団をかけると「おやすみ」と言って部屋を出た。
早起きに疲れたアイは泥のように午睡に落ちるのだった。

にゃー