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インド思想「バガヴァッド・ギーター」で気づいたこと。 本当の「知」について。

 割と静かに常に人気なのが仏教哲学やら、インド哲学です。

 時代の閉塞とか心の問題とかいう言葉とセットに紹介される「空」「唯識」……あとは「禅」とか。

 しかし最近、かたつむりくらいのペースで『バガヴァッド・ギーターの世界』(上村勝彦著)を読んでいて、ふと思ったことがありましたので、それについて書いておきます。

「バガヴァッド・ギーター」この何度打っても上手に変換してくれない文字列。

 知らない方も多いでしょうが、とてもざっくりいうと〈ヒンドゥー教の聖典〉です。
 あとは叙事詩であることと、戦争が描かれてることと、哲学について語られてることだけ書いておきます(豆知識)。


 さて、気になった箇所は知性の効能についての部分です。

『ギーター』で「知」はとにかく重要視されています。

 知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、世の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。

 インドにおいて「行為」することはそのまま「業」をつくることでした。

 それはよくわかります。

 生きているだけで肉や魚を食べたり、植物を踏んづけたり、自分が図書館で本を借りている間その本はみんな借りれないわけですから、何かをすることは自分以外のいろんなものを傷つけることになる。

 「業」を作ってしまうと、人は輪廻転生してしまう。
 インドにおいて〈生きること〉は〈苦しいこと〉ですので、せっかく死んだのにまた49日後に生まれてしまうのは嫌なことです。

 しかし、知性をそなえた者のみ、業を作らず、解脱する(=輪廻しない)。

「なぜ知をそなえた者は業を作らないのか」
 それは、
「結果に束縛されず、ヨーガを実現するから」です。
 よく分からないでしょう。

 別の方面から説明しましょう。


『ギーター』は「ヴェーダ聖典」を信奉する人々をあまりよく思っていません。

「ヴェーダ聖典」……バラモン教の聖典。
バラモン教……インドカースト制度の一番上の人たちの信じる宗教。ヒンドゥー教はカースト関係なく庶民も信じている。
バラモン教の特徴……祭祀主義。神様に儀式というご飯をあげる代わりに、自分を死後、天国に連れてゆく約束、天国に生まれ変わる約束、現世での享楽や権力を与える約束などを取り付ける。

 なぜよく思っていないかというと、「聖典の言葉に心を奪われ」「執着」しているから。

 天国に生まれたい、という欲望。
 享楽や権力を求める、欲望。

 何か自分に好ましい結果を想像してそのために行動することを『ギーター』はつくづく批判します。

「行為」が「業」を生むと言いましたが、「行為するな」とは『ギーター』は教えません。「業」を生むようには「行為するな」です。だから欲望に従って行動するのは、愚かだと言います。

「結果に束縛されず」とは簡単にそういうことでしょう。
「ヨーガが実現」が何か? ですって……

 うーむ。
 書きましょう。大変でしょうが、ぜひ読んでください。物知りになれます。


 ヨーガというのは、ヨガ教室のヨガと同じ言葉ですが。意味は少し違っていて、体をぐねーんとするのではなく、心や思考をぐねーんとすることです。

 ヨーガについて、とにかくさまざまな説と解釈と経典やら詩の数だけあるっぽいのですが、

 ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。

「平等の境地」らしいです。

 一体何が平等なのか。男女平等はあまり関係なさそうですが、実はあまり関係なくはない。

 ここでいう平等は「全てを平等なものとして捉える」という意味の平等です。「捉える」どころではなく、「平等なものになる」という意味でしょう。
「全てを平等なものとして捉える」とAよりBの方が優れているとか、AよりBの方が好きとかいう観念がなくなります。

 ざっくりいうと(『ギーター』においては、)〈厳密に、一切の偏見もない状態〉
 
です。

 そういう状態ですから「結果に束縛されず」に「行為」することが可能になるのでしょう。



 そんなことはどうでもいいのです。
 結果に束縛……とか、ヨーガ……とか。
 これらに到達するのに、『ギーター』では「知」を完成させる必要があると説きます。

 この「知」!!
 この太文字の「知」です。

 では、ここにおける「知」とは何なのか。

 ようやく本題です。


 「ヴェーダ」に書かれた形式的な知識に満足することをけなしていたように、受け取るだけの知識は「知」ではありません。

 上村先生はこの本でこう説明します。

学者や教養人が説く多彩なことばを聞いて惑わされていた状態から離れ、あなたの知性、すなわち心の最も深層の部分の働きが、非常に深い精神統一の状態において不動のものになるとき、あなたはヨーガという絶対の境地に達することができる

 これが「知」の姿であると。

 重要なことはやはり「あなたの知性」「不動のもの」でしょう。

 それは私もよく思うことです。

 今回きちんと言語化できるようになりました。

 よく「空」を理解したいとか「唯識」を知りたいとかいう人がいます。
 あとは「禅」を知れば心が楽にとか。

 しかし、こういうものが、思想的趣味にすぎないのだなと思いました。

 思想的趣味、スポーツや旅行などを行動的趣味、コレクションや買い物を物体的趣味と名づけたとき、読書とか話を聞くとか。

 これを趣味と言ってしまうのはつまり、考え方や世界の見え方は変わるかも知れませんが、変わるだけだということ。

 世界の見え方が変わったから何なのでしょう。

 大切なのは自分を知ることと他人を理解しようとすることです。

 その点で「空」も「唯識」も「禅」もあるいは「現代思想」とか「心理学」とか「DaiGo」とか「ひろゆき」とかあまり学んでも、それは趣味にすぎない。

 私はそういう趣味的な知識が大好きですから集めますが、「これで心が楽になる」とか「悩みが晴れる」「救われる」と銘打つのはどれもマヤカシだなと思うわけです。

 悩みを晴らしたければ、まず自分を理解して、他人(=社会=世界)を理解しようとする。そして自分について、世界についての正しい認識(偏見のない状態)ができるようになったとき、それは「不動」のものになり、いわゆる「心が楽になる」ことができるのでしょう。

 それにつきるかな。

 そういう意味で、本なんて一冊も読まなくても「知」を得ている人はいるでしょう。いっぱい読んでも「知」の無いままな人と同じくらい。

 アルジュナよ、これが梵の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においてもこの境地にあれば、梵における涅槃に達する。

にゃー