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アウトプット否定派 (11/11)

 ちゃっす、のり子っす。
 さぞお待ちかねたことでしょう。

 現在、show-goさんの新曲を聴きながらこれを書いています。


  文章を書くことは、自分と向き合うこと。
 なんてことをふと思いましたが、その金言に漏れずのり子も自分のことを考えてみたのですが、何故アウトプットが気に入らないのか。わかりました。

 理屈は簡単でインプットが好きだからです。

 でもだからと言って、アウトプットが何も嫌いなわけではない。
 でもですよ、
 アウトプットが日常に入り込むと、インプットが〈アウトプットのためのインプット〉になってしまうんです。

 だから最近はnoteとの距離を考えてまして、だいぶん上手くなってきたつもりです。間を開けすぎず、詰めすぎず。アウトプットが日常になりきらない期間を作ってデトックスしてるわけです。

 インプットはのり子にとって、人生の目的です。だからこれの先に何かがあってはいけない。一時期は〈インプットのためのアウトプット〉にしようと、アウトプットの仕方を模索していたのですが、結局距離を取ることで落ち着いた。

 書くこと自体は人一倍好きなでしょうけどね。

 でも記事に書くために役に立ちそうな本を半分無意識で選ぼうとしてたり、アウトプットのための読書だけに時間を取られて無駄な読書ができてないと、とても何か学問にとって大切なものを取りこぼすような気がしてたのです。

 私は大学入試に「無駄」という教科を付け加えるべきだと昔から唱えるほどの無駄信者。
 この「無駄」では「高校三年間でどれくらい無駄なことをしたか」が図られます。
 例えば、「三年間毎週一度は水たまりで釣りをしてました。一度も何もかかりませんでした」とか「三年の夏休み期間中に興味ない作家の興味ない小説を書き写してました」「町中の電信柱の位置を調べました」とか。
 これが何かの役に立ってしまったり、自分のスキルアップにつながっていたら減点、無駄であればあるほど高得点です。

 先ほどからこういう行為をディオ・ブランドーばりに無駄無駄とばかり言ってますが、「三年間毎週一度は水たまりで釣りをしてました。一度も何もかかりませんでした」が本当の意味で無駄とはどうしても思えないんですよね。特に学問をする上で。

 第一、生物すべて、存在物全て、生きてたり、有ったりすることが無駄で、なんの哲学も道徳も言語も省いて意味のあるものなんて一つもない。
 それを忘れてしまうと危険なこともあるわけで、釈迦やら龍樹がそれは釘を刺してくれてるわけです。ニーチェもキルケゴールも老子も、だから好きです。

 そういうわけで、飽く無きインプットの悦楽のためには、時にアンチ・アウトプットにならなければならないこともある。

 そういう話でした。

 久しぶりなので今回は短め。

 じゃね。

読書と執筆のカテにさせていただきます。 さすれば、noteで一番面白い記事を書きましょう。