みどりちゃん a7
わたしはすこし遅れて着いてしまった。カバンの紐が肩からずり落ち、下品に息をして中に入ったとき、おばばは無表情で椅子に座っていた。わたしは彼女の前に立ち、コクリと頭を下げて、準備をするために奥へひっこんだ。もう開店の時間であるのに、店の電気もついておらず、看板もでていない。これはひどい失態である。わたしは急ぎに急いで、開店準備を進めたのであった。
平日の昼間、この時間に、この店に来るお客さんは、およそ五十人くらいであろうか。それより少ない時も多い。きょうはきれいに晴れているので、少なくないだろう。
わたしは急いで店を用意したのであった。テーブルを拭いて、椅子をととのえ、それから窓に光を入れ、換気扇をまわして……看板を出して、仕入れ品を冷蔵庫になおし(本当は最初にやらなくてはならないのを忘れていた)、食パンを切って……その他のその他。
さて、きょう、はじめに入ってきたのは、見慣れない女性であった。この店に、見慣れない人がくるのはむしろ珍しい。
「うーんと、ここ座っていい?」
と、その人は、あたりをキョロキョロ見回しながら座った。何かを探しているようである。しかし、それより、わたしは彼女の格好がいいのに見惚れてしまったのであった。店に入ってきて、その瞬間、店内が彼女の空気に変わったように感じたのである。彼女は、美しい黒髪をつややかにのばし、服も、黒いダボダボの服を、ウエストのところで細いベルトをつかって締め、まるで黒い妖精であった。知的で、大人っぽいのであるが、わたしとあまり身長が変わらないところなど、少々愛らしさもあって、わたしはもう目を奪われてしまったのである。
彼女は、抹茶豆富をたのんだ。わたしは、すぐさま運ぶ。抹茶豆富を彼女のまえに置いたとき、彼女は、わたしのほうをじっと見つめて、狐のように丸い目をすっと細めた。
「もしかして、あおの妹ちゃん?」
わたしは、それはもう、顔が真っ青になったであろう。緊張に肩をつりあげて、わたしはいったいどうすれば良いのか、と、神様に必死に啓示を願うのである。心臓が泡を吹くようだ。まあまあ、落ち着いて落ち着いて。けれどそうして長らく時間を捨ててしまったと思う。わたしはその時間の狭間で内心あわあわしていた。
すると彼女は、ふん、と笑った。
「うーん。まあ、いいや。ありがとうお嬢ちゃん、話しかけてごめんね」
わたしは必死に首をふった。話しかけられること自体は、けっして嫌ではないのである。むしろ、本当はとても喜んでいるのだ。けれど、わたしのからだは、何もできないでいる、それだけである。
「いいよ、仕事に戻って」
わたしはお辞儀をした。うんとも、すんとも、云えばよかった。ちょうど、わたしがその場を離れるとき、彼女は最後の声をかけてくれた。
「また来るかもだけど」
よかった。とわたしは思った。もう一度来る、ということは、わたしに気分を害さなかったのだろう。とても優しい人に出会ったものである。わたしは本当に喜んで、奥へ走って帰った。それから彼女にコーヒを運んだ。
格好のいい彼女も、豆富を食べてしまうと、帰る。わたしは他の仕事をしながら、ちらと腕のあいだから彼女をのぞいたりして、そのたびに蕩然とした。薄緑色の白いちいさな塊を掬い、それをまた、薄桃色の白いちいさな口にいれる。その姿が、まるで見事に音楽のようであったのだ。
彼女が帰ってしまい、わたしはどっと力が抜けてしまったのであった。もう一度云おう、どっと力が抜けてしまったのであった。(どっとちからがぬける、という響きが面白い。とくに、どっと)
予想に反して、あまりお客さんが来ない。ために、わたしは、ときおり訪れるお客さんの注文をきき、それを運んで、その他の時間はダスターで店内を拭いたりして、長々と時間に暮れていた。忙しいときより、退屈なときの方が、圧倒的に疲れる。気持ちの問題かな。
そんなわたしに、昼休みが訪れた。わたしはおばばから昨夜の居酒屋の残りの品を受けとり、それをもって店をでる。わたしは普段、この仕事の中にある休憩時間を、前の公園のベンチに座って、たべたりして過ごすことにしているのだ。いわゆる、日課、ってやつだ。ルーティーンである。
けれど、きょうはこの公園に先客があった。
にゃー