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尾崎翠・梶井基次郎 対 消費社会 

思わぬ再発見があったりして、文学の細部がもつ奥の深さを思い知る。

最近、金を使うという快楽があることを知った。

もう一ヶ月以上も前の話である。

バイトを終え帰り際にコンビニに目が引き寄せられた。
わたしは疲れていたのだ。単なる疲労というよりは、背中に毒の溜まったような疲労。こういう時わたしは頭がピリピリする。小さな頭痛なのだろうか。

気がついた時には夜の中に浮かぶ眩い店に入っていて、商品と光に包まれていた。お腹が空いた。家に帰ると晩御飯がすでにあることを知っていながらわたしは「でもこれも食べたいな」と魚介のカップラーメンとポテチとアイスティーを買った。
普段コンビニや自動販売機を鬼でも見たように避けていたわたしにとって、必要でないものを衝動で買うのは珍しい。そして案の定、晩御飯を食べると満腹になり、その日のうちにはカップラーメンはおろかポテチもアイスティーにも口をつけなかった。

しかし、わたしの背中に溜まった毒も小さな頭痛もどこかへ去っていた。
そしてコンビニを出たときの綺麗な商品が入ったカバンの感触が、甘い記憶のように残ったのである。

浪費。
これは一つの快楽だ。

わたしは一つの発見をしたようである。

ともすればお金が貯まること以上の快楽。

おそらく、貯めよう貯めようと日頃節制している人ほど、強く感じることになるのだろう。
心血を注いで少しずつ蓄えたものを、自分にとって不必要なものに、あるいは世間的に無駄なものに、つまり現在欲していないものに消費する。この時の何か。ストレスを濯ぎ落とす感覚。

一種の生活への反抗である。自己否定だ。
努力を水の泡に替えることで、貯金なるものの小ささを自分に撲ち付けるのだ。

思い返せば、煙草を買ってしまった時や、アニメグッズを買った時、いつもは頼まない高いメニューを選んだ時、その瞬間に感じていたものはこれではなかったか。
もしスパチャなどしようものなら、あまりの気持ちよさに悶えるだろ。

自分へのご褒美というやつの正体。
無駄だからこそ、褒美たりえるのだ。


読書リハビリ生活。わたしは今そんな習慣を打ち立てている。最近、めっきり本を読んでなかったからだ。

わたしは幾らかの策を講じたが、その第一は「一番好きな本を読む」だった。

わたしは久しぶりにわたしにとっての聖書、尾崎翠『第七官界彷徨』を手に取った。


そして驚いたことに、わたしが先日感じた「浪費の快楽」を彼女もまた書いていたのだ。

実感と他人の文章が結びつくと、いつもハッとする。
見透かされているような気がするし、自分の行動範囲の狭さを思い知る。秘境の地へ辿り着いたと思ったらそこに尾崎翠がいたのだ。


主人公・町子が兄二人と従兄の住んでる「変な家」で暮らす、という小説であるが、従兄・三五郎がこんな発言をする。

「くびまきは買えなかったから来月にしてくれないか。今日分教場の先生にわらわれてネクタイをひとつ買ってしまったんだ。先生に嗤われてみろ、きっと何か買いたくなるものだよ。あとで考えると役にたたないものでも、その場では買いたくなるものだよ。それあ僕はボヘミアンネクタイに合う洋服なんか持ってないさ。ただ先生に嗤われると、何か賑やかなやつを買いたくなるんだ。丁度百貨店のエレベーターでボヘミアンネクタイをさげたやつと乗りあわしたから、それで僕も買ったんだよ。くびまきはまだ急がないだろう」

P44『第七官界彷徨』尾崎翠 河出文庫

驚くほど、わたしの残していたメモと合致する。
「役にたたない」こと、「何か賑やかなやつ」を無性に買ってしまいたくなること。

三五郎は音大に入りたくて音楽教室に通うのだが、前にも嗤われてそのときは兄から本を買うように渡されてたお金で、使いもしない「マドロスパイプ」を買う。
このネクタイにしたって、結局作中では一度も使わずに、見た目が寂しい町子の部屋の壁に装飾品代わりに掛けることになる。


大正時代に「都市」なるものがにわかに成立し始めた。
それを受け「都市文学」とも呼べる一群が文学史の中で確立されることになる。
のり子はその中に「デパート文学」なんてものが一角として存在する、とほのぼの考えているのであるが、『第七官界彷徨』も「デパート文学」の要点を押さえている。
やはりこの消費欲である。


デパート文学の中心に腰を据えているのは梶井基次郎の『檸檬』であるが、これもまた消費の恐ろしさと戦う小説だ。

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうか——

『檸檬』梶井基次郎

の一文で始まるこの小説は、「ただあたりまえの八百屋」で見つけた檸檬を見つけ、気に入って購入。それを爆弾にみたてて丸善(=デパート)の商品の上に置き去る。檸檬爆弾が全てを爆破する妄想に気分をすっきりさせて幕を閉じる。

『第七官界彷徨』にせよ『檸檬』にせよ、あるいは都市文学のはしりである川端康成の『浅草紅団』、デパートをテーマにした横光利一の『七階の運動』にしても共通するのは、「商品」を並べ並べて描くことである。

チヨコレートの中へ飛び込む女。靴下の中へ潜つた女。ロープモンタントにオペラパツク。パラソルの垣の中から顔を出したのは能子である。コンパクトの中の懐中鏡。石鹸の土手に続いた帽子の柱。ステツキの林をとり巻いた羽根枕、香水の山の中で競子は朝から放蕩した。人波は財布とナイフの中を奥へ奥へと流れて行く。缶詰の谷と靴の崖。リボンとレースが花の中へ登つてゐる。

『七階の運動』横光利一

伊藤整の短編小説『M百貨店』においても、

其処に、ラジオ機械、発熱機、電気焜炉の類がある。瓦斯蒸留機の説明をしてゐる男が、男と女の一群の前で、シャツ一枚で汗を流してゐる。アルコオルランプ、登山、天幕生活用品がある。石油焜炉の種々の種類がある。鹿山はつき当たりの狭い階段を登って、草花、植木、種物類と書いた硝子張の中へ入る。

この手法を用いることが、消費社会を表現するのに適していると、無意識の共感でもあったみたいに。

『檸檬』はそれを中でも上手く表現し、且つ展開に組み込んでいる。
主人公は度々、こんな風に商品を思い出す。

まだ生活の悪くなかった頃を振り返り「見すぼらしくて美しいものにつよくひきつけられた」といい、「汚い洗濯物」「がらくた」「ひまわり」「カンナ」などのものが並ぶ。

「生活がまだ蝕まれてない時は好きだった」と考えて思い出すのは「赤や黄のオーデコロン」「オードキニン」「切小細工」「ロココ趣味の琥珀やひすいの香水壜」「煙管」「小刀」「石鹸」「煙草」


このほか何度も、物や商品を羅列する部分があるが、決まっているのは「何かの感情を抱く」→「物」あるいは「欲望をいだく」→「商品」の順番である。

唯一の例外が「檸檬」である。
「檸檬」だけは、手にした後に様々な感情が浮かぶ。

始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらかゆるんできたと見えて、私は街の上で非常に幸福であった。

握っている掌から身内に染み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

私は何度も何度もその果実を鼻に持って行っては嗅いで見た。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻をつ」という言葉がれぎれに浮かんで来る。

次々に感情・感覚が湧いてくる。

それまでの、「感情」→「商品」は浪費の快楽の世界だろう。
「なんとなく何か欲しい」「何かしら買いたい」を叶えるのが消費社会の一つ満足の方法であり、買うことに主眼が置かれる。
買って、得た気になる、ということもある。ダイエットグッズも、本も、普段は使わない調味料も。

檸檬との出会いは、消費社会の中で滅多にない喜ばしいことである。なんの取り留めもない檸檬だった。しかし主人公はそれを、ちゃんと手に取ったのだ。そしてそれを手で、鼻で、目で味わったのである。この彼と檸檬との関係は、他のどこにもない唯一のあり方である。これは消費社会への抗議たりえる。

はなから特別なものよりも、取り留めのないものほど、その効果が強いように感じる。
「もの」と「私」との関係性。
たぶんそれは、「何か欲しい」の要求に応えるものが、たいてい「みんな欲しがる」ものだからだろう。


『第七官界彷徨』で商品たちはどんな風に描かれるだろうか。

あのボヘミアンネクタイだが、壁にかけられた後、三五郎によって髪を切られる町子の襟足に巻かれる。初めてのおかっぱでスースーするからだ。最後に出てくる時、ネクタイは町子によってこてで皺を伸ばされており、このとき町子に「一助と私と揃いの肘布団を作ろう」という思いつきを与える。町子はネクタイを見て思いつくのだ。

このほかでも作中、さまざまなものが、独特の存在感を持って登場する。

マドロスパイプが、音程の狂った気ちがいピアノが、こけが、栗が、ヘアアイロンが、蜜柑が。

そしてこれらは、時々に再登場して、この家族と特有の関係をもつ。

まるでもう一つのキャラ配置が、「もの」たちに割り振られているように。

これらのものは、この小説でささやかな登場人物として、町子や三五郎と一緒に物語の中で変化したり、あるいは変わらずにあったりするのである。

そしてこの小説を読んだ人はだれしも少し引っかかることに、町子もまたこの「もの」たちと近しい存在である。パイプ、ピアノ、こけのように、町子はお人形でもあるかのように、つまりひとつの「もの」ででもあるかのように、描写され、兄たちに扱われ愛玩されているのだ。このことが、この小説をより一層複雑に深めている。



「もの」との関係のあり方。
現代消費社会が見失った「もの」への眼差し。

こんなことを考えていると、わたしにとって本って何なのか、と考えてしまう。

宝物としての本もある。わたしと特別な関係をもっているものもある。同時に、何か本が欲しいと思ったから買ったものも大量にある。

高校生の頃手に取った本は、どれも檸檬だった。わたしは当時それらと真剣に向き合っていたし、一冊一冊に中の内容以上に語れるものがある。

いつからか読書を過程のように捉えてしまってないか。本を、知るための道具や、時間を潰すためのおもちゃにしていないか。

しかし、今からでも遅くないだろう。
せっかくだから、この読書リハビリ中に、この辺の根本的な本との付き合い方も模索していきたい。

間の悪いことに、リハビリメニューの第二は「適当に読み散らかす」である。
まあ、それも一応やってはみよう。
それから考えても遅くない。

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