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「同性愛は罪である」 ー 友人のことばから学んだこと

😔日本のみなさま、コロナウイルスで本当に大変な思いをされているかとお察しします。ここ遠いタンザニアに居てもいろいろな情報が飛び込んできます。できる限り少ない被害(命!健康!経済!)で、できる限り早く終息して、早く元通りの生活ができますように。
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「あなたは、どうしてそれが罪だっていうことがわからないの?」

2018年のある日、ゲイであることをカミングアウトした後、仲良くしていたタンザニア人に言われた。

(......あ、やっ…ちゃった。)
とってもショックだった、彼のこのド直球な「全否定」で突き放された。

この一言がきっかけで、すっかり自己防衛に入ってしまった私は、彼の言葉の後にすかさず、

「君はもっと世界を見たほうがいい」

と言い放ち、私は彼を否定した。

今思えば、なんて上から目線で、身勝手だったんだろう。
あれ以来ずっと違和感をもってひっかかっていた。

今ならはっきりと言える。

マイノリティという立場から、”世界”を見ていなかったのは、私のほうだった。

同じ過ちは、もう二度と繰り返したくない。
noteでLGBTQに関するエッセイを綴り始めて以来、このことについて、いつかきちんと書こう、そしてスッキリさせようと思っていた。

今回ようやく、当時のことを思い起こしながら、できる限り彼に寄り添ってきちんと書けそうだ。

仲良しだった彼にカミングアウトをしたあの日

彼の名前はアンドリュー。
私がとってもお世話になっていた雑貨屋のおばさんの長男。
とっても素直な子で、サッカーとスケッチが大好きだった。

私のことを気に入ってくれていたし、私も彼と仲良くできるのがとても居心地がよかった。

私の似顔絵をスケッチしたよ!と言って彼の作品をわざわざ届けてくれたこともあった。

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(アンドリューがくれた私の顔のスケッチ)


そんな彼とのSMSで恋愛について盛り上がった時、"ついつい"ゲイであることをカミングアウトした(そもそもするつもりはなかった)。その瞬間一瞬で空気が凍てついたのは、顔が見えていなくても、声を聞いていなくても、はっきりと感じた。

もともとカミングアウトをすることは、私にとっては「好きな食べ物は○○です」と言うのと同じくらい抵抗ゼロだったし、それを周りの人たち(日本人)も難なく受け入れてくれていた。

だから、(今回も、きっとわかってくれるだろう)なんて高をくくっていた。

そんな自分の予想と期待に反して、彼の第一声が、冒頭の一言である。


(言わなければ、よかった……)
スマホをつかんだ手は小刻みに不規則に震えていたけれど、そんな手の感覚も含め、五感のすべてが麻痺して、まるで自分がそこに居ないようだった。

本当にショックだったし、後悔をしていた。

そして、(こんなにも二人の間に大きな溝をつくったのは彼だ、私から離れていってしまったのは彼だ)と真っ先に思った。

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今思い返せば、なぜあの時、私は彼に「どうして同性愛が罪だと思うの?」と、ひとこと聞けなかったんだろう。

こうやって、マイノリティはマイノリティであることを盾に、時に身勝手な被害者になる。「相手が(私を)理解できない理由や背景」をわかろうともしない。

彼が私を突き放したのではなくて、私が彼を突き放したのだ。

彼の言葉(私にとっての脅威)に反応して、自己防衛にはいってしまうのは自然なリアクションだと思う。

でも、自分がそうなっていることを自覚せずにただただ自己主張をすることは、知性が備わっているのにそれを使わないこと。
ーーーーー わがままで、全然格好良くない。


「同性愛が罪である」という考え方

アンドリューが私に言ったことは彼が生きている社会では正しい、ということを当時の私は考えもしなかった。

彼のコミュニティは、タンザニア(法律で同性間の性行為が犯罪とされている国)の片田舎。

いくらインターネットが発達していようとも、人びとに流れ入ってくる情報・人びとが求めに行く情報は、都市部と田舎の地域差、年代、その国や地域のコンテキストに依るところが大きい。

LGBTQを犯罪としている国や文化であれば、なおさら、彼らの同性愛に関する情報や認識は、間違いなく私たちがもっているそれとは大きな違いがあることは容易に想像がつく。

そして、彼が「罪」という言葉をどういうニュアンスで使ったのかは聞かなかったけれど、これまで世界各地でLGBTQが歩んできた歴史の中では決して珍しいものではない。

・法律に反する犯罪という【法の下の罪】
・宗教の教義から逸脱しているという【信仰における罪】
・”普通”を逸脱してしまった人たちという、人びとにより定義される【文化、道徳、感情を基盤とした罪】

彼にとって同性愛は紛れもなく「罪」だった。

私に「君はもっと世界を見たほうがいい」なんて言われても、全くわけが分からなかったか、私と同じように反発していたのかも。
それか、「世界をわかったフリをして、大きな罪を背負っていることを認めようともしない哀れな人」と映ったかもしれない。


ちなみに、同性婚を法律で認める国は年々増えてきているが、2020年の今でもLGBTQは刑罰(禁固刑、死刑)の対象である国もまだまだたくさんある。

かと言って、メキシコなど国全体をあげて同性婚を合法化している国においてさえ、毎月のように多くのLGBTQが犯罪に巻き込まれ、命を落とす人も少なくない。

法律で保証されていることと、人びとのLGBTQに対する理解や感情とは別の話である。

現実はまだまだ厳しい。

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あの時、私が歩み寄るためにすべきだったこと

とは言え、これは私とアンドリュー、個人の問題である。

あの時、私と彼の間の溝を埋めるために取るべきだったのは、「同性愛を認めないなんて遅れている」と批判することでは決してなかった。

・私が、ゲイとしてどういう気持ちで、どういう風に生きてきたのかについて、被害者面をしないで素直に伝えること
・罪だと考えるワケや彼の気持ちがどんなものなのかに耳を傾け、彼を知ろうとすること
・「彼が世界を知らない」と思ったのならば、私が知っている世界をみせること
・そして、大切な友人だと言うことを伝えること

こう振り返ると、こんな基本的な努力もしていなかった自分が恥ずかしい。

ここまで自分自身に対して厳しく書いてきたが、かと言って、当時の自分を責めるつもりは全くなくて、あの時はあの時で、私、必死だった。
彼だって、突然のカミングアウトを受けて大いに困惑したし必死だったろう。

これは、どちらが悪かったという話でもない。


あれから2年がたった今、または10年、15年後先に話していたら、もしかしたらお互いわかり合うのがあの時ほど難しくなかったのかもしれない。

今回、当時のシチュエーションや自分の気持をできる限り思い起こしてこうして文章にできたことで、ずいぶん気持ちの整理ができた。

そして、「LGBTQとして”身勝手”とも言える主張をしない」「マイノリティを都合よく盾に使わない」「知性をもって生きる」という、自分自身への良いメッセージにもなった。


LGBTQではなくとも、もしもあなたが、それまで言えなかったことをカミングアウトしたことで、相手が否定的なリアクションをとったら、まずは、一呼吸二呼吸おいてほしい。

相手を批判することではなくて、相手を注意深く知ってほしい。

相手もきっと必死に考えたり、感じたりしているはずだから。

その相手があなたの大切なひとだったら、なおさらそう。

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ーーーーーーごめんね、アンドリュー。自分は今よりもずっと未熟だった。そして、こうして考える機会をくれて、やっぱりありがとう。


2020.03.03@Dar es Salam




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