noriとヒグチ
「やめろぉー!!」
窓ガラスが粉々に砕け散り、担任のマキタの怒号と児童の悲鳴、ガラスが割れる無機質な音が教室全体に鳴り響いていた。
教室のど真ん中、鬼の形相と化した親友のヒグチは狂ったようにスチール椅子を教室の窓ガラスに向けぶん投げていた。
一年に一度は必ず夢に出てくる情景だ。誰にでも忘れられない人っているもんだが、私は小学4年生の時に過ごした親友のヒグチを忘れたことはない。
ヒグチは学期の途中で入ってきた転校生だった。背丈は小柄だったが、口数が少なく、たまにニヤリと表情を浮かべる。掴み所がない変なヤツだったが、プラモデル作りが趣味で、私とヒグチはすぐ仲良しになった。
ヒグチは、民家が建ち並ぶ私の田舎では珍しい管理人付きの12階建てのマンションに住んでいた。
ある夏の帰り道、土曜午前の登校を終え、私とヒグチは、田んぼから立ち込める土の匂いと道路脇にある大衆飯屋の立ち上る煙にむせ返りながら、田んぼを横切りながら一緒に帰っていた。
「ねえnoriちゃん、今日の午後遊べる?」
「ああ遊べるよ。帰ってさ、昼メシ食ったら、ヒー君の家に遊びに行くわ」
木工所がある十字路でヒグチと別れ、早く遊びに行きたい一心で、背負ったランドセルを揺らしながら全速力で走りながら帰宅する。
土曜日の昼メシはいつもサッポロ一番の塩ラーメンだった。
「理科のテストは返ってきた?」
母親のネチネチとした問い詰めに、生返事をしながら、塩ラーメンを急いで掻き込んで、私は玄関を飛び出した。急いでヒグチのマンションに息を切らしながら、走って向かう。
「いらっしゃい。noriくん暑かったでしょ」
ヒグチのお母さんは焼いたクッキーと麦茶を出して、私を笑顔で出迎えてくれる。
ヒグチのお母さんは私のオニババと違い、いつもお洒落な洋服を着て、香水をつけ、化粧を綺麗にしている美人で優しい人だった。
ヒグチの部屋には最新式の戦車やらガンダムのプラモデルがズラリと並ぶ。木目調の家具が並び、綺麗なシャンデリアが釣り下がっていた。ヒグチの家は明らかに私の家より裕福だった。
プラモデルを組み立てながらヒグチに話しかける。
「ヒー君の家はいいよなぁ」
「なんで?」
「だって、お前んちは母さん優しいし、プラモデルはたくさんあるし、うちとは大違いだぜ」
「そうなの?」
少し恥ずかしそうに、ヒグチは笑みを浮かべた。
そんな感じで私はヒグチの家にスイミングの習い事がある日以外は毎日のように遊びに行っていた。
トンボが田んぼを飛び交う季節となった。
「おはよヒー君。今日もお前んち行っていいか?」
「いや、今日はちょっとな」
「いいじゃねえか、遊ぼうぜ」
ヒグチの表情にいつもの明るさがない。
ガキってヤツは自分の欲求に忠実だ。帰宅して、ランドセルを玄関に放り投げ、俺はヒグチのマンションに向かった。
「誰だ?」
チャイムを鳴らすと、上半身裸の見知らぬ男が玄関に出てきた。玄関からタバコの煙が立ち込める。玄関にはヒグチのお母さんのハイヒールがあった。ヒグチのお母さんは家にいるようだが、部屋の中は伺えない。
「おーい、タカユキ、友達だぞ」
「noriちゃん、ちょっと待ってて」
ヒグチは男を無視するようかのように野球帽を被り、近くの公園で遊ぼうって私の腕を掴んでマンションを後にした。
「なんだよ、今日はプラモデル作らないの?」
「ああ、もう俺、プラモデル飽きたんだ」
「ヒー君の母ちゃんは?」
「ああ、ちょっと出かけてんだ」
その日を境に、ヒグチの様子がおかしかった。登校すると、ヒグチは顔に殴られたような擦り傷を作ってきた。
「ヒー君、遊ぼうぜ」
「いや、ダメなんだ」
ヒグチの表情に笑顔が消えていた。
枯葉が落ち、トンボの死骸が地面に落ちていた。
久しぶりにヒグチの家に遊びに出かけた。
「あら。タカユキは今出かけてるから」
ヒグチのお母さんは無表情で何も言わずに、私を部屋に上げた。
シャンデリアはなくなり、木目調の家具も無くなっていた。床にはヒグチが大事にしていたプラモデルが壊れて散乱し、タバコの煙が立ち込めていた。
テーブルにヒグチのお母さんは力なく座り、タバコに火をつけ、私に話しかける。
「noriくん、もう家には来ないでくれる?私たちね、近いうちに引っ越しするの」
優しいヒグチのお母さんはもう居なかった。私はヒグチが帰るのを待たずヒグチの家を出た。
帰宅して夕御飯の時、私は母親にヒグチの話を持ち出した。母親はため息をつきながら、答えた。
「ヒグチさんはホステスさんだからねえ」
翌朝、ヒグチは教室に現れなかった。ホームルームの時間になると、担任のマキタと一緒にヒグチは固い表情で教室に入ってきた。
「おい、ヒー君」
斜め前に席があったヒグチに声をかけたが、口を真一文字に結び、真っ直ぐに前を向いて座った。
マキタが教壇で話を始めた。
「残念だが、ヒグチくんはな、来月末に転校することとなった。それまでみんな仲良くしてやってくれ。後な、ヒグチくんは名前が変わる」
黒板にこう書いたのだ。
「いいか、来月からはオオタくんと呼ぶように」
その瞬間だった。
ヒグチは立ち上がり、自分の椅子を掴み、黒板に投げつけた。それから狂ったように周囲の椅子を窓ガラスに投げつけまくったのだ。
血相を変え、マキタが止めようとするが、誰もヒグチを止められない。人が怒り狂うとはこういうことなのだと私は学んだ。
児童は急いで廊下に避難するように先生が誘導する。私も急かされながら、ガラスが散乱した教室を後にした。学校中、大パニックだった。
私は校門の前でいつまでもヒグチを待った。
時刻は17時を回っていた。
とぼとぼと力なくヒグチは学校から出てきた。
私は無言で、ヒグチの肩に手を回し、いつもの帰り道を歩いた。
大衆飯屋から魚を焼いている煙が上がっていた。夕焼けが広がっていた。それは殺したくなるような真っ赤な夕焼け空だった。
木工所のある十字路に差し掛かる手前に、私はヒグチに口を開いた。
「ヒー君はいつまでもヒー君だよ」
ヒグチは無言で右手をそらに突き上げた。
ヒグチと会った最後の日となった。
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