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新・幸福論 (五木 寛之)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 先にアランの「幸福論」を読んだのですが、今度は五木寛之氏の「新・幸福論」です。
 アランの著作が「論」というより「幸せ」をテーマにしたプロポ(哲学断章)であったのに対し、こちらは五木氏得意のエッセイ集です。

(p45より引用) 人間は幸福に生きることが望ましい。しかし、完全な幸福などありえないと私は思います。
 人はすべて、なにがしかのうしろめたさを抱いて生きざるをえない。それが真実です。

 人の生活は、必ず他者、それは他人であり周りの動植物であり環境などですが、それらの犠牲の上に成り立っているとの考えです。

(p44より引用) 人が生きる、ということは、かならず痛みをともなうものです。地上の動物や植物や資源は、すべて人間の生活を幸福にするためにある、という考え方が近代の根元にあるヒューマニズムの自信でした。
 ブータンの人びとの素朴ともいえる考え方には、そんな近代人の傲慢さを静かにたしなめる力がある。

 読み進めていくと本書の半ば過ぎ「努力して幸福になれるか」の章で、五木氏もアランの「幸福論」に言及しています。
 アランは、幸せになる方法として「具体的な動作・所作」を勧めています。たとえば、「欠伸をする」であったり「微笑む」であったり・・・。五木氏が勧めるのは「ため息」です。

(p152より引用) なんともいえないプレッシャーにおしつぶされそうになったときは、背すじをのばし、顔をあげて、
「なんだこんな気持ち、がんばれ、プラス思考でのりきれ」
と、自分を叱咤激励するよりも、肩をおとし、背中を丸めて、
「あーあ」
と、深いため息を三度、四度、五度とつくほうがいい、という意見です。
 全身から木枯らしのような大きなため息をくり返しついているうちに、なんとなく心がおさまってくる。そこでとりあえず立ちあがって歩きだせばいいではないか。

 「ため息」は人前でつくと、その場の雰囲気を沈み込ませてしまう恐れがありますが、一人でいるときなら五木氏が語るように、そのときの心持を落ち着かせ “一区切り” をつけるひとつの方法かもしれませんね。

 本書を通底している五木氏の思考は、必ずしも幸せになるための「明るく活力に満ちた単純なプラス思考」ではありません。「普通の人びと」の視点から現実をとらまえて、ある種の諦観も心に持ちながらの生きる姿勢を書き綴っています。

(p159より引用) つよく夢見ることが不得手な人びと、そして幸運にも夢見ることができても、その夢が実現しないとき、私たちはどうするか。
 少数者の幸福論は、私たちにとってあまり必要ないのかもしれません。

五木寛之氏も、もう80歳間近なのだそうです。



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