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「専門家」とは誰か (村上 陽一郎 編)

(注:本稿は、2023年に初投稿したものの再録です。)

 いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。

 編者の村上陽一郎さんの著作は、最近の「エリートと教養-ポストコロナの日本考」をはじめ、いままでも何冊か読んでいます。

 本書は、「専門家」をテーマに、科学・歴史・メディア等さまざまな分野の “専門家” による論考を採録したものです。
 流石に “素人” である私には、なかなか議論についていくことが出来なかったところもありましたが、それでも数多くの気づきがありました。
 そのいくつかを覚えとして書き留めておきます。

 まずは、メディア史・大衆文化論を専門とする京都大学大学院教授佐藤卓己さんによる「『ネガティブ・リテラシー』の時代へ」とタイトルされた論考の中から、メディア社会の本質を指摘しているくだり。

(p80より引用) 今日のメディア社会は、情報社会 (information society) というより情動社会(affective society) と呼ぶべきものなのである。 情動社会において客観的ニュースよりも感情的ツイートが重視されるのは当然であり、現実政治を駆動させているのは客観的な情報でも合理的な論理でもない。

 最近の「フェイクニュース」も、事実ではなく、“愉快犯” 的な動機による意図的なものだという点では「感情的ツイート」の亜流としても数えられますね。

 そしてまた佐藤さんは、「客観的ニュース」と位置づけられがちな「世論調査」も必ずしも “輿論(公的意見)” の表明ではなく、“国民感情調査” といったものだと指摘しています。

 さらに、佐藤さんの論考では、アメリカのジャーナリスト・政治評論家ウォルター・リップマンの「輿論」という著作から、“大衆民主主義に対するペシミズム” についての興味深い議論が引用されています。

(p92より引用) 「民主主義の無能力に対する救済を、いつもの教育に訴えることは不毛である。・・・教育への月並みな訴えは失望しかもたらさない。現題世界の諸問題は、教師たちが把握し、その実質を子供たちに伝えるより速く現れ、変化するからである。その日の問題をどう解決するか、子どもたちに教えようとしても学校はいつも遅れてしまう」

 そこで、そういう歪んだ民意形成プロセスを修正する情報システムとして「専門家」の存在を位置づけるという考え方をリップマンは提起しています。
 そして、佐藤さんは自らの思索をこう結んでいます。

(p98より引用) 私は世論調査の民意よりも専門家の意見により大きな関心を抱いている。もちろん、大衆の感情と専門家の意見をすりあわせ、世論を輿論にまとめあげることが、成熟したデモクラシーには求められる。その意味でも、デモクラシーの理想型は「輿論主義」であり、デモクラシーが大正期にそう訳されていたことを心に刻んでおきたいものである。

 なかなか面白い論考ですね。

 次に、科学技術社会論を専門とする千葉大学大学院教授神里達博さんによる「リスク時代における行政と専門家:英国BSE問題から」とタイトルされた論考の中から、リスク認識における事実認識の歪みの発生を指摘したいるくだり。

(p156より引用) 技術的に把握が難しいリスクについて、もしそのリスクが明らかになることを望まない人たちが存在し、かつ、当該リスクの認識を担う専門家が、そのような人たちとなんらかの関わりがある場合、どのような事態が起こりうるか、ちょっと「思考実験」をしてみてほしい。行政判断の基礎となる科学的な事実の認識自体が歪んでしまったり、それに伴って政策判断もねじ曲げられてしまうような、そんな危うい事態が目に浮かぶのではないか。

 これは、まさに今回の新型コロナウィルス感染症に対する専門家・行政・政治が絡んだ対応検討の場において生じた悪態です。
 ただ日本の場合は、専門家の発言を起点にして、リスクを軽んじる動きと、リスクを増幅させる動きの双方が生じました。これはいずれも “ニュートラルで冷徹な事実認識” とは相容れない “科学軽視の反応” だったと言えるでしょう。

 もうひとつの問題は、行政や政治による判断がなされる前に “専門家が、自らの専門範囲を越えて「政治的配慮」を行った” ことです。
 その点から、神里さんは、

(p159より引用) どの専門家を選ぶかで、私たちの未来が変わってしまう―、これは、決して誇張ではないのだ。

と語っています。
 そして、日本の場合は「審議会のアジェンダ決定及び運営、専門家の選定」は行政(=官僚)が担うのが通例です。シナリオはそこで作られるというわけです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 最初のほうに配されている「専門性」「専門家」の定義に類する哲学色の濃い論考は私の理解力をかなり越えているものでしたが、半ば以降の「専門家」と「社会」との関わりを論じたあたり、たとえば大阪大学名誉教授小林傳司さんの「社会と科学をつなぐ新しい『専門家』」で紹介された「臨床の専門家」「基礎研究の専門家」「媒介の専門家」といった類型整理とかは、私でも腹に落ちる解説でした。

 その意味では、私の場合、本書での「専門家の論考」のうちのいくつかを理解するには、親切な “媒介” が必要だったようですね。




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