見出し画像

モスラの精神史 (小野 俊太郎)

 私の幼いころ(もう50年以上前ですが)、映画といえば「怪獣映画」
 東宝・大映それぞれでゴジラ・ガメラをトップスターにラドン・キングギドラ・アンギラス・・・、バルゴン・ギャオス・ギロン・・・と数々の魅力的な怪獣が登場しました。
 が、その中でも「モスラ」は別格のキャラクタでしたね。ゴジラが“キング”なら、モスラは“クィーン”です。

 著者の文芸評論家小野俊太郎氏はまさに私と同世代。その著者が、「モスラはなぜ蛾なのか」にはじまる「モスラ自体」の数々の謎、そして当時の世相を反映した「モスラ映画」に内包されたメッセージを解き明かしていきます。
 ちょっとマニアックなアプローチの本ですが、それだけに私にとってもいくつもの発見がありました。

 まずは、「モスラ」の原作について。
 「モスラ」には、映画に先立った原作がありました。週刊朝日に掲載された『発光妖精とモスラ』がそれです。
 作者は当時中堅作家として注目されていた中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の三者。新進気鋭の作家ですから、当然、そこには何らかのメッセージが込められています。
 それは、「自然主義リアリズム」への批判であったと著者は指摘しています。

(p20より引用) 怪獣という奇想が、自然主義リアリズム、ましてや現実をそのまま平凡になぞって満足するタイプのリアリズムを抜けだす方法として、魅力的に見えたとしても不思議ではない。中村たちの『モスラ』への関与は、明らかに文学の現状への不満から発していた。

 モスラが上映されたのは1961年。米ソ二大国を核とした東西陣営の冷戦の真っ只中、日本国内も60年安保闘争の余韻が残っている時代です。
 当然、原作者たちの意識には、文学界のみにとどまらず当時の政治・社会状況に対する不満も鬱積していました。

(p64より引用) 『発光妖精とモスラ』には、中村たち三人の当時の政治状況への思いがこもっていた。中条という言語学者を中心におきながら、それを照らしだす福田という新聞記者をおき、物語の軸となる人物を中条から福田へと交代させることで、アカデミズムとジャーナリズムが、敵対したり分離したりするのではなく、共同して真実を暴く可能性をしめした。ネルソンという人物で表現された「ロシリカ」や、顔がどこを向いているのかわからない日本政府へのいらだちを、市民の側から解決する提案であった。

 「ロシリカ」とは、もちろん「ロシア(ソ連)」と「アメリカ」ですね。

 私のような世代にとっては、本書の論考はとても親近感を抱く内容だと思います。
 目次を辿っても、
 「第四章 インファント島と南方幻想」
 「第五章 モスラ神話と安保条約」
 「第十章 同盟国を襲うモスラ」
 「第十一章 平和主義と大阪万博」・・・
と、当時の社会情勢を反映した切り口が並びます。

 もちろん、本書で指摘している内容が、すべて「モスラ」の製作者たちの意図であったかどうかは定かではありません。部分的には後付けの我田引水的考察もあるでしょう。
 しかしながら、そこで語られているエピソードや解釈は、やはり「モスラ」に、あの時代の映画としての raison d'être を感じさせるものでした。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?